入院中に読んだ本について書く。去年に入院したときの読書で、岩波新書の『岡潔 数学の詩人』についてブログにスマホで書いた。感想文程度のものであり、書評とは言い難い半端なもの。
病床におけるメインの読書については、ブログに掲載したかったのだが、全部を読み通すことができなかったという体たらくだった。自宅に戻ってから読み通したものの、全体の感想なりメモを残すことができなかったのである。
その本とは、長いあいだ読み続け、畏敬する佐伯啓思の2年半前の主著『近代の虚妄』(2020)である。副題に「現代文明論序説」とあるが、佐伯の本には遠慮がちに「序説」と名付けた著書が何冊かある。まだ完本ではない、この後にも深い考察を加えたい、そんな旨を伝えたい。かのように、佐伯の思慮深いセンスと人柄があらわれていると思う。
著作の特長としては、主として西洋文明を思想史的に概観したものである。しかし、それは今日においては、人類の滅亡をもたらす戦争、環境破壊などを内包した文明であること、その思想基盤そのものが「近代」を頂点として完成されたものだ、と佐伯は指摘し、深い論議を展開している。
何人かの優れた西洋の思想家たち自身が、近代になってその脆弱かつ危険な思想基盤に気づき、反省・警告の書を著わしてきた。たとえば、『西洋の没落』のシュペングラーの文明史観、ヘーゲルやコジューブの歴史哲学、ニーチェ、オルテガのニヒリズム、さらにホイジンガーの人類哲学、ハイデガーの実存哲学にも言及している。(最初に『歴史の終り』のフランシス‣フクヤマに言及しているが、その「終り」とは違う次元、タームであることを展開。)
この現代という時代は、近代に生まれた科学技術の革新、エネルギー資源の発見と資本主義の発達の延長として、ある種の未曽有の栄華・富を享受しているといえる。しかし、その実相には、「世界の破滅」に導くほどのクライシス、「人類・文明の崩壊」を包含している。そのことを実証すべく、佐伯は件の思想家だけでなく、デカルトを嚆矢とする西洋の合理的精神、ホッブズの「個人の自由」と「生存と力の論理」など、「西洋の知」を形づくった重要な思想家たちにもふれている。
いま、西洋文明のパラダイム(思考の枠組み)が全世界を席巻し、今日のさまざまな問題(陰謀論やフェイク)や相克(人種・性差別・ポリコレなど)を生んでいることは否定しようがない事実だ。
これらの課題にたいして如何に向き合うか。優れた先人の警告の書を参照しつつ、現代文明の諸問題を照射する面もある。『近代の虚妄』は、その意味でも「近代」の延長としての「現代」が含まれていて、西洋文明そのものの限界が如実に現れている今という時代を痛烈に批判する。まさに、佐伯啓思しか書けない渾身の著書である。
本の構成としては以下のとおり。
端的に全体の流れがわかるように、目次の大見出しを紹介したい。
序論:新型コロナウィルスと現代文明
第1章:フェイク時代の民主主義
第2章:「歴史の終り」と「歴史の危機」
第3章:「西洋の没落」に始まる現代
第4章:ハイデガーの問いと西洋文明の帰結
第5章:「ニヒリズムの時代」としての近代
第6章:科学技術に翻弄される現代文明
第7章:暴走する「グローバル資本主義ー経済学の責任」
第8章:「無の思想」と西田哲学
終章:日本思想の可能性
まず、新型コロナの感染病が世界を混乱させ、経済活動や人々の行動様式が大きく変容したこと。アメリカ大統領にトランプが就任して以降、貧富などの「分断」が明らかに表面化し、民主主義のもつ脆弱さが鮮明化した。佐伯はまず、こうした現代に混沌と危機をもたらした象徴的な事象を分析。そして、これらの諸現象が、西洋文明がつくりあげた「近代」と地続きであり、この地球に住む人誰もがそのしがらみから逃れられない。
いま、我々日本人もまた、「西欧の知」が変形したアメリカ的思考を受容し、その枠組みで対応している(日本のエスタブリッシュメントであり官僚)。かつて東洋思想を独自に深化させ、さらに「西洋の知」を相対的に取り込んできた日本思想は著しく瘦せ衰え、危機に瀕している。佐伯啓思はそう慨嘆し、「東洋の知」の復権を静かに訴えたいのではないか・・。
本の内容については詳しくはあたらない、関心のある方に読んでいただきたい。個人的な感想をいえば、確かに「西洋文明」を起原とするテクノロジー、イデオロギーは全世界に浸透していて、東洋思想の雄としての中国さえもが「西洋の知」の極北であるマルクス主義(コミュニズム)を取り込んだ。いまや、ソフトな独裁型の監視・統治システムにアレンジ・発展させ、もはや西洋(アングロサクソン)流の世界経済システムを凌駕するものになると、多くの識者は予測している。
いや、かつてのソ連の社会主義も、資本主義を止揚すべき革命的イデオロギーとして、クロポトキン、バクーニンらの思想営為を継承し、レーニンらが結実させたものだ。それを多くの人が危険思想とみなし、仮想敵として捉えたところで、根は同根のちょっと異端の「西洋の知」であることは間違いない。
ある意味、西洋文明を築きあげた覇権・帝国主義の幻想を継承した勘違い野郎プーチンが、かつての歴史の再現を果たすべく、隣国ウクライナを我がものにすべきだとして侵略した。『近代の虚妄』は2020年に上梓されたので、このウクライナ戦争については書かれていない。
佐伯啓思は、西部邁の優秀な門下生であり、経済思想史の学者として出発した。当然のこと、アメリカの新自由主義と強欲・金融資本主義、インターネットがもたらした情報・金融工学による際限のない資本の膨張と富の分断、グローバリズムを起因とする各国間の軋轢を分析してきた。筆者は、彼の思想営為に共鳴し、彼の著作をほとんど読んできた、たぶん。
「西洋の知」には限界があり、人間の営みの深いところまで考察していないと述べている。少なくとも筆者にはそう感じ、端的には西洋文明は、この世の存在しているものだけを「有」として認知する知性だ。東洋思想の「無」は、意識的に捨象されている、そう佐伯は言いたいのではないか・・。
分かりやすく言えば、神は実在し、その契約に基づく人間こそが地球を支配できる。それが「西洋の知」の大前提である。人間を主体とする主知主義、反自然主義を是としている。これは間違いではない。しかし、一方では、大航海時代に遭遇した未開の人たちに対して、彼らは人間以下の動物であると、勝手な論理をはたらかせて植民地主義を生みだした。こうした事実があることも踏まえ、「西洋の知」のアンチテーゼとして「東洋の知」を見出した佐伯は、この書を著わしたのではないか。
彼は東日本大震災以降、その考察を専門とする経済の領域から、社会思想にまでひろげるようになった。雑誌(新潮45)に身近な問題を読み解く、政治・社会分野へのクリアカットな論議を寄稿。その雑誌が廃刊されたら、自身が監修する『ひらく』という重厚な雑誌を創刊し、不定期であるが世に問うている。近年は、いうまでもなくカウンターとして東洋文明の「無」に重きをおき、新たな思想的営為を積み上げている。
『近代の虚妄』はある種のパラダイム変換を促し、西洋思想から東洋思想への読み直しを示唆する書だ。大震災以降、西田幾多郎を中心に日本思想の読み直しに傾注してきた佐伯。その「東洋の知」があたかも「西洋の知」を乗り越えるものとして、この書の結論にしている。
しかし、筆者としては、それは無理筋ではないかと思う。「西洋の知」VS「東洋の知」は、サイエンスの根拠、データの蓄積が圧倒的に差があり、「無」という概念はスピリチュアルであり、既存宗教を代替するようなものとして受容されてきた。もちろん、一部の西洋の識者も認めている、東洋の自然観、死生観などは高度な知性を孕んでいる。しかし、西洋的価値にどっぷり浸かった人々には、とうてい理解できるものではないと思う。その辺の困難さをどう解釈し、乗り越えるのであろうか。真摯に前向きに思想営為を続ける佐伯啓思、これからも追っていきたいのであるが・・。(とはいいながらも、佐伯の『西田幾多郎』を読むと、その帯に「日本的精神の核心を衝く」とあるように、この混迷する日本を憂うどころか救いとなる書であったなあ)
最後に書き残したいこと。佐伯がこだわる「東洋の知」の或る到達点として『死にかた論』(2021)を上梓した。それが3回目の入院時における主要な読書であり、斎藤幸平の著作が後回しになるほど、仏教への深い理解にもつながった。いつか近いうち、エネルギーが枯渇しないうちに、稚拙ながらもカタチにしたいと思っている。