「声は楽器のごとく」という記事を書いた延長で、『共感覚という世界観』(原田武著・新曜社)という本を図書館で借りて読んだ。アルファベットや数字が、色彩や音色として感覚される不思議な「共感覚」という知覚現象を、心理学や脳科学、時にマクルーハンのメディア論などの研究書を参照し、著者がフランス文学者のためか、古今の文学書を繙いて共感覚的な表現を論じたきわめて刺激的な書であった。
A.ランボーの「母音」という詩が、a.i.u.e.oのアルファベット母音そのものに黒や赤などの固有の色彩を持っているというエピソードは有名である。こうした特殊な知覚能力は、先天的にもつ人あるいは幻覚剤、麻酔などの薬剤でもたらされることもある。最近では、サヴァン症候群の人たちが、数字や色彩に音階を感じたり、その逆に音楽のメロディーが色彩として、視覚的に見える人もいるという。
この本では、多彩な文献が参照されるが、なかでも音・聴覚に関する文献のひとつに、未読のアラン・コルバン著『音の風景』が引用されていて、つよく興味をもった。
コルバンなら地元の古書店、木菟(みみずく)さんの所にあるだろうと、リハビリの帰りに寄ってみた。残念ながらなかったのだが、ご主人から湯川書房の本、津高和一の『断簡集』を差し出された。ご主人には、かつて湯川書房の本があったらキープしてほしいと頼んであった。
著者は初めて聞く名前で、ご主人によれば画家らしい。ぺらぺらと頁を捲ると奇数頁に一行の文が書かれている。句歌集つまり定型ではないが、時の経過にも色褪せない詩のような言葉が紡がれている。即座に、「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った」で有名な安西冬衛の一行詩が思い浮んだ。
さらに捲ると、ドローイングのような抽象的な線画が随所に挟まれている。そして再び、表紙の見返しをみると、赤と黒の抽象画が飛び込んできた。その鮮烈な色彩は、オリジナルのシルク印刷によるものだと後でわかった。やはり湯川書房の造本はちょっと違う。
四六版の変形で使用されている紙質も独特だ。1976刊行で背表紙はヤケがある。が、本としての手触り感は初めてといっていい。表紙にも手書きのタイトルが箔押しされている。500部限定の初版でも、ネットで売られている価格程度で購入した。
津高和一は画家で、最初は具象画を描き、1950年頃から抽象画に転じたらしい。海外のほうが著名らしくMOMAや英国博物館、他各国の美術館にも所蔵されている。篠田桃江とほぼ同世代で、彼女の書の作風とも親近感があるためか、海外では一緒に紹介されたようだ。国内での評価はどうしたものだろう、無知な私はなんとも言えない。
さて、書名にある「断簡」とは、辞書では「切れ切れの言葉を書いたもの」とあったが、忘れないように書きのこしたメモ書きぐらいの意味か・・。いやいやどうして切れ切れというか、イメージの喚起力がほとばしる一行の言葉で、小生には詩魂ありと読んだ。
関西に住んでいたためか、東京の文化圏との交流が薄かったのかもしれない。最近、兵庫に在住する(した)詩人、歌人などが小生の心をとらえて離さない。なぜこれ程に詩心のある人が多いのだろうか。
津高和一の言語表現は、画家の余技としては出色のものだ。言葉の選び方、彫琢の仕方はまさに詩人だと思うし、もしあれば他の著書も読んでみたい。
下記の写真以外に、書き留めておきたい一行の幾つかを載せる。
・抜けた天に 逆立ちの手ざわり
・頬を撫でた風は 風景の中で 少女の毛髪を嬲る
・林の中で蝶の蛹が 橙色の黄昏に馴染む
・落盤の空を両手で支え 欠伸をする
・いのちは果実の汁のようなものだった
・処女懐胎は天蓋の下で生毛を生やす修道尼
・硬質の刺を隠して小鳥は 喪服を着た女の手中にいた
・風に封印しているのは、見えない私語を反覆する蝿
・白モクレンの蕾の紡錘形に 錆びる機械 (※「錆」は、金へんに、つくりが秀)
津高和一は、1995年の阪神淡路大震災で被災して亡くなったとある。家屋が倒壊して、妻とともに圧死した。享年83歳。