小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

北欧映画について、断片的に

2020年09月25日 | 芸術(映画・写真等含)

最初、デンマークの作家ユッシ・エーズラ・オールスンの警察小説〈特捜部Q〉シリーズの新作『アサドの祈り』の読後感想について書こうとしていた。

その導入として、北欧の映画にふれる必要があり、何としたことか、こちらの方に比重がかかり、自前の思考分裂がはじまった。この際、結末がどうあれ、北欧映画について書かないと、自分のなかで収まりがつかない。それにはまずベルイマンを語るしかない、ということの前書きである。

スウェーデン映画の巨匠イングマール・ベルイマンを観たのは高校一年のとき。同級生に誘われたからで、ベルイマンなんて知らなかった。ゲイっぽい雰囲気のある彼が、ある日いきなり小生を誘ったのは何故か、今になっても分からない。ともかく、八重洲にある京橋フィルムセンターに行ったのだ(今は名前が変わっている)。

50人ぐらいが座れる部屋で、映画館というより試写室だった。確か半分ぐらいの入りで、雰囲気は国会図書館にいるときのような厳粛さと誇らしさ、その半面のエリート臭さと居心地の悪さが同居する、なんとも表現しづらい複雑な心境を、今となってはそう表現するしかない。同時にこれは、15歳の少年にとっての新鮮な驚きと、今の若い奴の「キモイ」感情の混淆というのだろうか、知らん。

映写がはじまると、字幕は英語で、話されている言葉は聞いたこともない言語が飛び交った。中学では英語部に所属し、叔父の商業英語の翻訳を手伝っていたが、英語の字幕スーパーはほとんど理解できない。上映中、シーンの所々では、多くの人が同時に笑っていた。ので、つくづく自分が場違いなところにいるのだと痛感した。

(その時観た映画は、たぶん第七の封印だった。これがペストという感染病、十字軍の話だったとは、最近知ったことである。若い時の己の知見は、哀しいかな浅く、貧しいのだなあ・・。観た映画は、あと一本あるのだが、悔しいかな忘却の彼方。莫迦承知之介の弁でござる)。

ベルイマン作品はその後、『沈黙』や『野いちご』『処女の泉』などを観て感心し、個人的にはゴダールやフェリーニを超える監督だと思えるようになった。構図は絵画的だが、色彩や動きなど(ムービーとしての美学)を捨象して、内容の物語性とか演技の表現力に重点をおく姿勢が、見るからに伝わってきて、監督としての力量を知るようになった。

 

(いやー、ベルイマンがくり返し表現する「神の不在」について、自分なりの解釈を何度もトライしたが言語化できない・・)。

ただ、『叫びとささやき』では、ベルイマンは神の「実在」を視覚化した、と我はおもう。少々オカルトティックともいうべき強引な演出は、ベルイマンが映画という手法の、或る到達点を極めたからだ。

死んだ女性が生き返り、生前、彼女の世話をしていた召使いの胸に抱かれるシーンは、まさしく宗教画そのものだった。この一連のシークエンスは、背筋が凍るほどに怖く、戦慄するシーンが連続する。だが、やがて、想像を絶するほどの至福、宗教的な美しさに観客は包まれる、はずだ(損得勘定、役に立つか否かで、処世する方には不向きな作品です)。

▲19世紀のスウェーデン貴族の邸宅が舞台。3人姉妹をめぐる生と死、家族と性、個人と祈りなどテーマは重層的かつ深い。宗教画にも見える終盤のシーン。

これ以降、ベルイマンは身近な現実社会に目を向けるようになったのか・・。家族をメインにした映画、人間のコミュニケーション、その齟齬をテーマにした作品など、初期作品とは随分と趣が異なるようになった。ストレートに分かりやすくなったが、そのぶん寡作になった。自分としては、そんな印象が残る。

(70年代に入ってから、アメリカン・ニューシネマが躍進する。ベトナム戦争以降の人間の在りかた、他者との共存が映画の主流になり、小生の関心もそちらに流れた)。

 

さて、今回のテーマとも関連するが、北欧の映画には、緯度の高い地理に関係するものであろうが、全体の雰囲気がやや暗い印象をもつものが多い。ある種のエキゾチシズムというか、白夜と極夜に代表されるように陰陽のふり幅が大きい。

日本でみる北欧の映画は少なくて、アントナン・アルトーも出演していた『裁かるゝジャンヌ』の監督カール・ドライヤル、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『メランコリア』のラース・フォン・トリアーはデンマークの映画監督であり、ベルイマンと同じような雰囲気を感じさせる。もちろん内容ではなく、画面を通して伝わる空気感みたいなもの。北欧ならではの太陽光の質感かもしれない。

フィンランド映画では、なんといってもアキ・カウリスマキだが、語る資格がない。『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ 』『マッチ工場の少女』『浮き雲』が印象に残っている程度。世代的に近く、アメリカン・ニューシネマの影響をたっぷり吸収し、かつ北欧の独自性かつアイデンティティを打ち出した映画。こんな断定的な書き方では失礼なのだが、カウリスマキならではの知性・軽妙な演出がやや物足らない。北欧の「冬の闇=鬱」に、くそ真面目に取り組んでいない。個人的には当時、断然面白いが「しょっぱい」という感想を抱いたのであった。

最近、ビデオでスウェーデン映画の『サーミの血』を観た。これは北欧三国にまたがるラップランドの少数民族を題材とした映画で、日本におけるアイヌの人々の生き様とオーバーラップするようにして観た。そう、人間(日本人)という生き物が、どうしようもなく他者を差別しながら、仲間とも競争をくり返しながら生き残っていかざるえない、狭量な存在なんだなあと感慨を新たにしたのだ。

ということで、北欧映画はダークなのだが、その闇を飽きることなく明らかにしようとする。面倒くさいけど、一度くらいは、みる価値はあるのだと言いたい。お後がよろしいようで。

 

 

 


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