岩波書店のホームページは偶に見るのだが、端っこの方に佐藤正午の『月の満ち欠け』の試し読みコーナーがあった。
⇒「https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0140830.pdf (現在、立ち読み程度の9pほど。どんな意味があるんだ?)
エッセイ集を2冊ほど読んでいて、優れた書き手だと感心し、ブログにも書いたことがある。ただ、手練の恋愛小説作家という評判は高いのだが、この歳で男女関係のあれやこれやの物語は、もうすすんで読まないと決めていた。
でも、試し読みならいいかと・・。書きだしの技巧はいかに、ストーリーがどう展開されるかを確認するぐらいの、軽い気持ちで読んでしまった!
巧妙な語り口でぐいぐいと引きつけ、次はどうなる、どんな表現で叙述するのか、この設定は独創的だ、懐かしい高田馬場駅の周辺が舞台だ、と最初の60頁ほどをすーっと読んでしまった。
男女の愛というよりは、結ばれた後の、つまり家族あるいは絆が主題であろうと見込みをつけた。これなら、読んでもいいかなと思い込まさせられ、本を買ってしまった。
読み始めたもう一つ大きな理由がある。中学生のとき女子二人と男子四人のグループ交際をしていたことがあり、女性のひとりの名前が「瑠璃子」で、わたしの憧れの女の子だった。『月の満ち欠け』では「瑠璃」という女性がキーとなり、その久しぶりの名前の魅力に抗することができず、この小説を読みはじめたアクセルにもなったのだ。
物語の内容、あらすじについてはふれないでおこう。
ただ、佐藤正午の小説、その語り方や筋の運びが、一流の料理人の鮮やかな包丁さばきを見るようで、無駄な動きのない洗練されたプロの腕前を見るようだった。
昔テレビに「料理の鉄人」なる番組があったが、「瑠璃」という一つの素材をテーマに、4つのテーブルでそれぞれ別の料理を作りあげる。だが、その一つひとつが連環してゆき、世代をこえた大きな物語が紡がれる、そんな印象をもった。
小説としては珍しいだろう、最後に参考文献があった。本の題名だけを書いておく。
『前世を記憶する子どもたち』『死の儀礼━葬送習俗の人類学的研究』『哲学的思考━フッサール現象学の核心』『与謝野晶子歌集』『吉井勇歌集』以上の5冊
書名だけで勘の鋭い方なら気づくであろう。輪廻転生が主題であり、「瑠璃も玻璃も照らせば光る」という与謝野晶子の歌がキーフレーズとなって繰り返される。この歌の返歌ではないが、暗号の符牒のように吉井勇の歌も忘れられないフレーズとなる。
君にちかふ阿蘇の煙の絶ゆるとも萬葉集の歌ほろぶとも
男と女の死に別れが、これほど切なく絶えがたいものとして心を打つものなのか。それは少女として生まれ変わるという、一種のオカルト現象によって再生と離反を繰り返し、生きることを考えさせる「転生」が、この小説の大きな幹になっている。この世は確かに不思議な現象に満ちていて、認めてしかるべき一理はあるようなのだが・・。参考文献にもあるように、そうした事象、実証的な調査や研究は確かにある。
ただ、私からいわせれば、佐藤正午という人は小説家であっても、現実というリアリティを尊重して物語を紡ぐ作家であると思っていた。ファンタジーではなく、あくまでも万理が支配する現実のなかで、人は会い、愛し愛され、共に生き、そしてどちらかが先に死んでゆく、そんなストーリーを作りあげる人だと思っていた。
その意味では、『月の満ち欠け』は、私を裏切るものであった。しかし、その読後感は一点の曇りもなく爽やかなもので、まあ骨太の「愛」の小説ということにしておく。
最後に、瑠璃が「月の満ち欠け」について語ったところを紹介して、筆をおく。
「神様がね、この世に誕生した最初の男女に、二種類の死に方を選ばせたの。ひとつは樹木のように、死んで種子を残す、自分は死んでも、子孫を残す道。もうひとつは、月のように、死んでも何回も生まれ変わる道。そういう伝説がある。死の起源をめぐる有名な伝説。知らない?」
追記:先週、近代美術館に続き、日曜日は新西洋美術館。今日は都立美術館と、なんかアーティスティックな日が多くなった。来週は、循環器診療と歯医者に、ヘルスチェックの週になる。リア充でもなんでもない。