この齢にして『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典文庫版・亀山郁夫訳)をやっと読むことができた。
死ぬまでには読みたいと願っていたドストエフスキーの遺作かつ未完の大作。最終的な結着をみないまま、その後の展開を読者の思案にゆだねる作品である。それはそれで、畢竟ともいうべき文学世界を予感させるに充分な、底知れないイマジネーションを喚起してくれる。
今回は読後の印象だけにとどめよう。
論評など畏れ多いし、複層する作品の構造、文学としての卓越したストーリーテリング、民族の宗教観などを考証しつつ、かつ論理的に平明に書くことは、申し訳ないが到底無理。
兎にも角にも、主要な登場人物たちの個性、アク、クセが凄い! 男も女も切れるときはブチ切れて、失神するか病にかかる。(ドストエフスキー自身が癲癇の発作に苦しんでいたのだ)
といって、キャラクターの組み合わせというか、語る相手によっては、深遠なる思想やロシア正教仕込みの宗教哲学、ときには人間の欲望と倫理性がテーマとなり、独特の文学空間に「そこはかとなく」引きずり込まれる。
専門用語を使わずに、滔々(とうとう)と無神論などが披瀝される。力でねじ伏せるような表現でなく、ふつうの言葉で噛み砕くように丁寧であるから、引くことはない。若い感性ならきっと喰らいつきたくなるはず。
わたし自身が若いときには何故か気おくれして、ほとんど手を出せなかったドストエフスキー作品。
正直に書けば、『罪と罰』、『地下生活者の手記』と、読書経験はきわめて貧しい。また、周囲に読んだ人間もいたはずなんだが・・、過去にドストエフスキーの長編について熱く語る人は皆無だったのは不思議だ。(偏った人間関係だったことが思い起こされる)
3月ごろから読みはじめて3か月程かけて読んできたが、投げ出さなかったのはこの小説が、「父親殺し」をテーマとした、ある意味でのミステリー作品であることが大きな理由のひとつ。(これはギリシャ悲劇からフロイトの精神分析にいたる根源的なテーマ。現代ではもはや、「父親殺し」ではなく「父親つぶし」「父親壊し」といった方がピンとくるだろう)。
ただ、作品そのものにロシア独特の歴史がかった「癖」がある。いったん読書から離れると、後述するがやはり読書欲が減退する。若いときだったら怖いもの知らずで、集中力は切らさなかったと思う。
事件の発生から犯人探しが物語の大きな骨格をなす。登場人物は少ないながらも人物の心理描写の巧みさ、未来のなにかを予感させる含みのある表現。なによりもストーリーのプロットの配置、意外な展開。これらの大胆さと緻密さは、ドストエフスキーならではのものと言うべきなのであろう。
関係ないが、『カラマーゾフの兄弟』は「壮大」だとよく称されるが、私にとっては「深遠」という言葉こそふさわしい、と不遜にも思う。
この光文社古典文庫版では、原作の構成に則って5分冊にしている。これは読者にとって親切な配慮で、違和感なく一冊ごとに読み通すことができた。5冊目はエピローグだけがおさめられ、亀山郁夫による「ドストエフスキーの伝記」と「解題」が付録になっている。未読だが読みごたえありそうだ。
『カラマーゾフ』以外にも別の本を何冊か同時に読んでいたので、いったんドストエフスキーから離れると、再読するのがすこし億劫になった。(一途なヒタスラ男、ツンデレ女性、ただただヘイコラ男、人間性を試す怖い少年・少女、その他メンヘラ、妄想狂、「クセが凄い」のが多いのじゃ)
また、同時進行で事件やらイベント、出逢いが錯綜として出現する。それぞれの章立ては独立して、それなりの小さなオチがある。余韻を楽しむ味わいがあり、また読後の印象度が強すぎて「休み」も欲しくなる。次の展開を予想する、自分なりの思索する間合いがほしくなる。予想通り、体力・知力は使った。
人物のキャラクターの強さ、毒気のようなアク、強さは、どこから来るのか・・。いわゆる『カラマーゾフ家』なるものの固有性か。それとも、背後にある露西亜の歴史が民族性が控えているのか・・。その茫漠としたものが「深遠」なる味わいであり、意味がある。
個々について考えてみれば、大地とともに生きた農奴たちの生き様(作品の成立は農奴解放後)、いわゆる後進性、野卑と諦め、ことなかれ主義、拝金主義、むき出しの欲望・・、反面教師としての社会主義、倫理性の志向、近代的な法治制度、これらのテーマがくだんのインフルエンサーを通して叙述される。
ドストエフスキー熱の免疫のない人にとって、ちょっと注意が必要か。時代背景はロシアの近代草創期だから、もう熱気はそうとう冷めているけど。
読後の印象ということで、この辺にしておこう。
▲亀山郁夫によると『カラマーゾフの兄弟』のポリフォニー(多声音楽性)は重要で、その解読にはバフチンは捨て置けないという。