小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

井手ひとみ詩集『午後の睡り』を読む 

2019年03月30日 | 

先日、鹿島茂の『吉本隆明 2019』という記事を書いた。その最後のほうに、古書木菟さんの奥様との約束めいたことを書いた。ご友人の井手ひとみさんという詩人の詩集を借り、読んだ感想を述べることの、まあこちらが勝手に申し合わせたようなものだった。

その後一読して、自分なりの感想をどう言ったらよいのか考えた。で、一言でいえばライトヴァースの云々、そして印象批評のような文言が浮かんだのだが・・。詩集全体のモチーフ、通奏低音のようなものを確認したくて再読した。

自分なりの感想を文章化し、拙いながらも論評してお渡しするのが筋だと思えてきた。それを先週だったかお渡しして、井手さんの承諾をいただけたなら、我がブログに載せたいという押しつけがましい要望も申し添えて・・。

昨日、古書木菟さんにお邪魔して、なんとサンタルチア。以上のすべてが受け入れられた。この場をかりて感謝を申し上げます。

 

 

さて、井手ひとみさんの詩、短めの詩を紹介したい。彼女はいま、俳句の方に傾注して創作されているようなのだが、この「踵」という詩は、まことにビジュアルイメージが鮮烈。一瞬の美しさが立ち、と同時に、生々しい絵をみるような詩である。俳句に向かうような、端正で、きりっとした詩魂を感じる。

踵は足の果実
齧られたとき
はじめて知った

踵は南のくにの果物
においが あじが

椅子にこしかけて
ぶらぶらさせて
気をひこう

剥いたばかりの
果実のように
しろい身を差し出そう

 

最後の一行、「しろい身を差し出そう」が、詩人井手ひとみの、唯一といっていいジェンダーを感じた一行であり、「踵」の卓越さをここに収斂させている。

ご本人のご承諾を得たこともあり、参考までにということで拙い感想文を載せる。

 

 

『午後の睡り』にあらわれる明察な抒情、そして理性

すべての詩は読みやすく、明示的な言葉と明快なレトリックによって、呻吟することがない。なだらかな清流を見ているようなその速度は、まさにアレグロ「やや軽やかな」音楽を聴く、言葉のステップ感覚がある。驚くことに、それはすべての詩に共通している。佇む、逡巡する、まどろむ言葉は入ってこない。これは才能というか、何かを明察することのアティチュード、スタンスが確立されているからできることだ。

一読して、そういう感慨を懐いた。強度ある抽象度の高い言葉は意識的に避けられている。批判的に指摘すれば、コンテキストが骨太ではない。その展開として、詩のフレーズの持続力、ストーリーテリングがやや弱いのか・・。でも、それは詩作品そのものにとって、致命的なものとはならないし、むしろ歌詞のような言葉の音やメロディアスな響きの美しさとして特化させることもできよう。小説よりも掌へ、という概念を想起すれば、それに該当する。

(筆者はこれまで、特定の詩人の作品を集中的に(期間限定的に)読んでこなかった。ただし、宮澤賢治、吉本隆明、吉岡実、長田弘を除いて。だから、詩を好んで読む人間ではないし、論評なぞしたことがない。いや、最近は、時里二郎という詩人を知って、「石目」という散文詩に至極惹かれた。詩というものの、新たな可能性を見出したのだが・・。ともあれ、古書「木菟」のご縁もあり、井手ひとみという詩人に歩み寄ってゆきたい。)

『午後の睡り』の読後は、詩集がかもし出す純粋性あるいは硬骨なことばとは対極の、自分が勝手に思っている手ごわい言語イメージを、さりげなく払拭する感じもあって、その手触りみたいなものは、一言でいえば「軽やかで、不思議な感触」、「いいじゃないか」という思わぬ驚きと感動だった。

以上が、全体を通じて最初に読んで書いたこと。

再読する必要を感じた。最初の感想とは違う、想像していない角度から、詩のもつ手応えを感じた。詩を読むことに馴れていないのか、そんなことはない、『午後の睡り』の主調音、通奏低音を読み間違えていたのかもしれない。

それはまず、一語のタイトルの詩篇たちが、あらたな相貌を見せはじめたのだ。イメージの輪郭というか、言葉の構成力が太く、確度が増しているように思えた。歌の歌詞のようにそこに旋律をのせて唄ってみたくなった。もちろん、和の音階で昔の武満徹のような音楽を想像してもらいたい。林光もいいとおもう。

「踵」「雪」「鳥」「蝶」「犬」「狐」「鹿」「声」

いずれも端的なイメージを屹立させ、直喩と、詩のもつ洗練された言葉のテンポが気持ちいい。これを発見したとき、自分流にアドリブで音をつけて唄ってみた。我ながらおかしなことをするものだと、自分で恥しくなった。ただ、一語の詩群のなかで「鞄」だけは散文詩であり、これは他の詩とも違っていた(後述)。

一語のもつ「名詞」の端的なタイトルは、詩人の想像力を味方にするかのように軽やかで明確な世界観が表現されている。「蝶」や「鹿」などは、まさに鮮烈といっていい。映像詩といっていいぐらい、ビジュアル・イメージを鮮明に喚起させる。「鞄」はもちろん、革の色、匂いなども感じさせて、豊かなイメージを創出している。それよりも時間の流れという世界観が整理されてい、幻想物語を理性的に語るのだという、意を決した覚悟を感じるのだ。井手ひとみはなぜ、もっと散文詩を書かないのか?

拙いがもっと自分流に、自由にアプローチしてみよう。 「夜の船」を読んだ時の、ある種の衝撃を語ってもいいだろうか。

自意識としての尊厳、誰にも侵されない純粋な「ことばの構築」の存在。それが揺蕩うように深く静かに浸透してくる。なんの疑念もなく、思考が停滞することもなく読みすすむことができた一篇だった・・。さきほどの一語のタイトルの詩とはだいぶ雰囲気が違う。ある種の手ごわさに近い。

言葉の選び方や紡ぎ方において、センシティブで女性ならではの洗練性を感じたのであるが、所与のイメージで漫然と読んではいけないと、はたと沈思したのが、「夜の船」という詩だった。井手さんの意識には、理性的な全体イメージの骨格が見えていて、それを彼女ならではの感覚でポエジーの輪郭をなぞろうとしているのではないか。

ひるまの空気が淀んだ部屋は
川辺の葦のしげみの根元のように
濃くてむせかえる
揺らぐ部屋の外から
射してくる光
満ちてくる水を混ぜて

「夜の船」の導入は、「夜の闇の中でわたしは一艘の舟にのる」という明示的な夜の世界が現れる。そして続く言葉が紡ぐ世界観は「部屋」という固定的で、あるいは凝縮的な空間である。詩人井出ひとみは、感覚的に言葉をつかうとみせて、時間と空間を混淆させる野望をもっている。だが、その苦吟は絶対に明かさない、提示したい詩の世界は、だからこそ理性がつよく働いている。

流れにこぎだせば
窓はぬるりと溶けて
外は雨だ
舟がだんだん重くなる

誤解を避けたいのだが、「理性的な表現」といっても、それは論理性なり完璧を目指す方法論といったものではない。いちおう仮の「モード」と設定する。様式、パターンのようなものが強固にあって、それは井出さんの詩作のスタイルではなく、思考のパターンあるいは想像力、図形イメージの造形力に近いものだ。自分なりに「モード」を設定してアプローチしたら、「夜の舟」という詩の力の作用が深く内部にくいこんできた。

「岐路」「夜歩く」「国境」も、同様の「モード」からの作用を感じた。井手さんの詩のタイトルをどのように決めるのか、何を基準に言葉を選ぶのか猛烈に知りたくなった。なぜ、そう思ったのか、自分流の拙い「モード」を使う。

詩人の井手ひとみの「国境」に分け入ってみる。これはもうある種のロードムービーの「モード」を適用したい。

「分断された国境は、はるか昔はどうでもいい架空の仕分けであり、人々はそこで自由に行き交い、市が立ったり馴染みのみせがあったり、評判のスイーツで人を呼び寄せた。そこは山間の土地もあれば、小高い山の上から両方の国を見渡せて、いつも青空が見え、爽やかな風が吹いているなかなか気持ちの良いところなのだ。誰もそこが国境だなんて思っているわけでもなく、ただ、バスの運転席の掲示板にどこそこからどこそこへと、二つの国の主要な街の行き先が書いてある。必然的に、そこは国境の、重要な停留所であることがわかる。ああ、なんと幻想的でおとぎ話にでてくる人々が交感する場所なんだ。コンビニエンスストアもあれば、牢獄もあり、そこの井戸からは、逆様に歩くひとの足音が響くという。」(『国境』より)

「国境」のもつ詩のイマジネーションは豊饒で、夢も見なくなった老人の感性を研ぎ澄ませてくれる。詩の力、喚起力は有余るというのに、それをもっと引き伸ばし、持続させてくれと懇願したいくらいだ。そのいずれもが2Pほどで収まってしまうのがもったいない。

短い詩はパターン化され、それは定型の抒情をうむことが約束されていればそれでいい。軽やかな言語感覚はジェンダーを意識させないし、現代詩人として前線で粘れるはずだ。というか理性の彫琢がのぞめるはずだ。

詩人中村不二夫は「井手の詩は直感的に優れているが、同時にそこでの過剰な心情吐露を抑制する理性的な側面もつよく持っている」と評している。また、こうも書いている。「井手の詩は感情世界の輪郭が、既成の意味解釈を越えたイメージとなってダイレクトに伝わって・・」と、感性、感覚の優位性に特長を見出している。

実はそうではなく、感情があふれるほどもなく、心情を吐露するところもない。きわめて知性を感じる、統御された理性をも感じられるのだ。

それにしても、あの1字のタイトルの詩群は、ほんとにイメージの確かさが伝わってき、唄ってみたくなるほどの言葉の音階を奏でさせている。理性的な抒情っておかしな言葉だろうか・・。

最後に「鞄」のような詩こそ、今の時代に求められていはしないか。それももっとロングな、ポエティークを。

 

追記:本記事を投稿したのは3月30日で、本日5月5日に古書木菟さんに伺った。「井手」さんの名前を「井出」と誤記していたことを知らされた。固有名を間違えるなぞ以ての外である。ここに深く陳謝して、井手ひとみさんにお詫び申し上げます。


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