小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

西荻で、時里二郎に逢う(※)

2019年04月01日 | 

なんという僥倖、光栄に浴すことができたのか・・。今となってみれば、身のほど知らずと誹りを受けるやも知れぬ。まず、「そもそも」を書く。

詩人、時里二郎のブログ『森のことば、ことばの森』にめぐりあったこと、その因果あるいは経緯の記憶は定かではない。

ブログを辿って飛び込んできたのは、言葉ではなくむしろ、切りとられた美しい写真の数々だった。そのビジュアルの画質の高さは、もちろんスキルにもよる。しかし、自然のあるがままを生き映す、その姿勢・感度の高さに敬服した。

日々、身近にそれらにふれ、親しんでいる。氏の生活スタイルこそが上質であり、ただただ羨むかぎりのものだった。兵庫県の加西という地の、どんな風土、歴史さえも知らない。ただ、鳥や花、昆虫などの自然がすぐそこに在る。人が暮らす隣に、息づいていることは感知できる。そしてまた、かつての「日本の四季」が実在していることを、まさに氏の撮った美しい写真によって実感できたのだ。

▲さぎそう

▲ブナの倒木に生えたキノコ

▲「ごじゅうから」  

上記3点の写真は、ほんの一部、いずれも時里二郎さんの、最近の撮影によるもの。たぶん、近隣の森林に行って撮ったものだろう。「詩・ことば」を忘れるために出かける、自然の営みを見、感じるためにだけ森に入るとのこと。氏のブログ『森のことば、ことばの森』から拝借しました。ご了承いただけるものと一存するゆえに転載。妄言多謝。

ブログの内容についてはここではふれない。

『石目』という詩集を読んで、当ブログにもその感想を書いたが、さほど小生と年齢も違わずに、詩の言葉を組み立てる作業(脳内も含む)を、たぶん毎日持続されている。詩人なら当たり前であろうが、凡夫の愚生としては、無条件に感服せざるをえない。

そうなのだ、言語構造物としての『石目』は、この老躯に鞭を打ち入れるほどの強烈なポエジーを叩きこんでくれた。(『名井島』はまだ未読、四分の一程度、折口信夫のそれ、聞くこと忘れた。××は死ななきゃ・・)

 

さて、《カナリスvol.6》の刊行記念として「浜田優『哀歌とバラッド』と時里二郎『名井島』をめぐる公開合評と4人の同人によるリーディング」のイベントに、当の時里氏が参加することを知り、ぜひとも末席に列して鑑賞したく、何十年ぶりかで西荻を訪れた次第。

喜び勇んで&心配性の半々、開始時刻40分前に到着してしまった。和紙や額装・表具などアート系会社が所有するギャラリー「数寄和」に入ると、3人の男女が談笑していた。そのうちの一人が時里氏だと、直ぐに分かった。背の高い男性が、最近『哀歌とバラッド』で丸山薫賞を受賞した浜田優氏、もう一方は、詩人・写真家の藤原安紀子さん。(詩人 建畠哲氏は定刻に到着)

詩の朗読の順番などイベントの段取りを話されていて、やや小休止に入ったところを見計らって厚かましくも小生は、時里氏に話しかけることにした。

『森のことば、ことばの森』を読んでいること。『石目』を読んだ経緯、そして想像をこえた読了の手応え、印象を手短に述べた。氏は率直に悦んでくれて、小生の嫌らしくも図々しい署名の希いを、いとも気軽に受けいれてくれた。「なんぼでもしますよ」との播磨弁(?)は、なんとも耳心地良くやさしさに溢れるものだったか・・。

時里氏の方から名刺を差し出していただき、一応交換してからも少し話ができたのだが、『名井島』を読了していないので、この新作にちなむ話はできなかった。だが、時里氏は、読んでいない詩集などあれば送りますからと、驚愕すべきことを仰った。礼を失することかもしれないが、その言葉こそ千載一遇の機会であることは言うに待たない。然るべき措置のもとに、送っていただけることになった。

小生は、氏の第1と第2詩集が、かの名高い湯川書房から刊行されていることを承知している。時里氏の著書は、いま極端な品薄状態である。署名していただいた『名井島』も、版元さえ品切れであり、再刷後の4月後半に小生の手元に届くはずであった。地元の本屋「往来堂」さんの尽力もあり、今回のイベントに間に合ったという曰く付きの初版本だったのだ。

▲中央に時里二郎、左に建畠哲、右に浜田優 (ムービーと朗読時以外の撮影は可ということだったので・・)

イベントのすべてを詳細に語ることは、小生の能力をこえ、ましてその任ではない。

ただ、『名井島』を書いたモチーフとして、空気がまだ存在する高高度から地球を俯瞰したとすると、海が自然の領域だとすれば、陸は人間に属するそれとして見なせる。そういう総体としての、「島」の位置づけは、いわば「詩集」として仮設定できる。つまり、陸に棲む人間が、海という自然のなかで、純粋な言葉を紡いだ詩集=島といえるのではないか・・。

なので「半島」は、島ともいえず海に隣接して、喰いこんで来ている陸地だ(海側から見て)。そこは、より人間に近い「場」であり、トポスとしての言葉の集積、散文のようなものを想定してもいいのではないか。と、述べた時里氏は、『名井島』を上梓された後、次なる言葉の構造物を視野に入れ、そう言ったのかもしれない。

そうだ!今日、入場時にいただいた冊子は、編集部が豊島区駒込にある詩誌『カナリスvol.6』、それに載っている時里二郎の詩のタイトルこそ『半島』であった。

最後に、15年ぶりになるという時里氏の詩の朗読は、朗々とした読みで素晴らしいものだった。声の張りもあり滑舌も頗るいい。やや低めの声のトーンは年相応の落ち着きと味わい、メリハリもあって聴きやすい。

その朗読された『脱衣』という詩は、散文と詩篇で構成されたやや長めの詩。

前作の『石目』ほどでもないが、『名井島』は全体構成はゆるいものの、一つのストーリーとして意識的に言葉が組み立てられているとのこと。『脱衣』は、そのなかの後半部に属し、今日はじめて朗読を聞きながら黙読。朗読するにふさわしい言葉の淀みない流れ、意味の深みを感じつつ、音韻の美しささえも意識した詩のつくりだ。

氏が読んでいて、微かに「ノッテいる」と思わせる箇所もあったし、播磨弁らしきニュアンスなのか「せみどさん せみどさん」という詩のフレーズは、いまにも耳に残っている声の震えだ。これは氏も意識したのか、表記にないほど繰り返して朗読された、もちろん自然体で・・。それが凄くよかった。

せみどさん
せみどさん
そう耳にした付着した音の菌を
鈴のようにふる

あと、もうひとつ

映写機のなかの水たまりが
ふと噴きこぼれたような
曖昧な路地で
臨月の母を見たことがある
粘土(ねばつち)の皮膚のような水のなかで
ころ ころ ころ

この「ころ ころ」も、耳さわりの気持ち良いリフレーンとして、時里氏はことばを重ねられた。

 

▲サインに著作権ありやなしや。公開は可能か? 単なるプチ自慢として看過されるのか? 暫し掲載

 

追記:イベントの全体のこと、時里氏ほかの各詩人の皆さんにも触れたいのですが、いかんせん承知不行き届き者として見過ごしていただきたい。

(※)当初、タイトルを「平成最後の日、時里二郎氏」としていた。明らかな勘違いであり、訂正して変更した。令和の新元号は5月1日からだ。(4月5日付記)

 

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