東京新聞の総合欄、その端っこに小さなコラム記事『親子で学ぶぅ』がある。最近の出来事をピックアップして、子どもにも理解してもらえるような「まとめ記事」である。辺野古の埋め立て問題から、琵琶湖のお祭りの、ドラマ『まんぷく』に出ていた女優(ヒロインの姪の役らしい)が一日船長になった話まで、硬軟とりまぜた記事が平日の朝刊に掲載される。
今日のそれは「国際編」で、ニュージーランドで起きた殺人テロ事件が記事になっていた。しめくくりに、地元の報道によるとあったが、亡くなった人の中には3歳の男の子がいたこと、そして「白人と移民(イスラム教徒)を分断することが事件の目的だったこと。ニュージーランドを犯行場所に選んだのは、『世界のどこでも安全ではない』ことを知らせるためだったとしています」と、まとめていた。
この記事を読んで、やっぱり「銃規制」は必要なんだとあらためて実感した。そして「白人至上主義」が生まれた思想背景を、徹底的に分析することも重要だなと思った。
ほんとうはそれが本質的な問題ではないのだが、「白人至上主義」というものを盾(口実)に、過激な行動に走らせたことも問題の根底にある、と小生は考えている。
事件はだいたい分かってきたが、犯人の28歳のオーストラリア人の男性は、「白人至上主義」を信奉し、「白人と移民を分断する」ことが目的だったとされている。『親子で学ぶぅ』でも、そうした趣旨の内容であった。
分かっていることは、他にもある。犯人は軍用の半自動銃を何丁か保持し、大勢のイスラム教徒たちを殺戮した。そして、その映像を自身で冷徹にネット中継していたことだ。この事実は、「白人至上主義」と結びつけていいものかとおもう。たんなる口実として、自分の犯行を正統化したいがための、勝手なへ理屈かもしれないではないか・・。
同じ東京新聞だが、コラムニストの師岡カリーマさんが、先週の『本音のコラム』で「NZ銃撃犯の心理」と題し、犯人は少年時代に戦争ゲームに夢中だったことと、動機が「殺したいから」というただそれだけの理由で、移民、イスラム市民に対して憎しみを募らせたのではないか、と書いていた。驚愕したのは、ネット上で殺戮を中継していたとき、もちろん観客もいて「いいね」をする輩もいたのだということ・・。
憎悪が、実際に殺したい欲求に変わるとき・・。その大義名分として、反イスラム、反移民、そして白人至上主義というイデオロギーが使われた。そんな背景があって、ゲーム感覚に等しい大量殺戮におよんだ。凄惨な殺人現場が、感覚を麻痺するほどの娯楽としてネットに中継されるような現代。銃乱射事件の多くの、犯人たちが白人だった。それは何故だ?
犯人は事前に計画していたのだ。イスラム移民が倍増したとはいえ、それほど問題の少ないニュージーランドを選んだのは、そこが銃規制がゆるく、大量殺戮をゲームみたいに容易く実行できる特別の地だったからだ。「『世界のどこでも安全ではない』ことを知らせるためだった」のも口実であり、「白人と移民を分断する」なんて目的は、自身がそう思い込んでいただけで、結果と目的はまったく関係ない。そういう支離滅裂な「声明文」を発表した行為も、いつか免罪されるものと勝手に、都合よく考えていた節がみられる。
犯人の宗教観まで、これまでの報道で記事になっていない。出自を考えれば、たぶんキリスト教者だろう。であるならば、自分の犯した殺人も、キリストの赦しを乞うことで、精神の安寧を得られると思っているのではないか・・。彼は100人以上(死亡者50人)の人間を殺傷し、十分にゲーム感覚のように大量殺戮を楽しんだ。そして、身の安全をはかるためと、その赦しをえるために、銃を捨て投降した。
小生としては、犯人の根源的な心理は、殺人欲求もあるだろうが、秋葉原事件を起こした犯人のような、「超自我」の欠如と、そのことから派生する「目立ちたい」心理に起因するものだと読んでいる。それはまた、ISに参加したイギリス、フランスのイスラーム移民の2世、3世の若者たちにも通底している内的問題だと考える。
日本だって安全ではない。しかし「銃規制」は厳然とある。オーストラリア人の犯人は、『世界のどこでも安全ではない』ことを知らせるために、日本を選ぶことはしなかったはずだ。銃を持ちこめないからだ。「規制」は表現の「自由」を脅かすが、効用もあるのだ。そのことも含めて考えていかねばなるまい。