小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

私にとっての『名井島』①

2019年05月26日 | 

「森のことば、ことばの森」というブログに偶然にもアクセスし、詩人時里二郎の存在を知ることになったのは、ほぼ一年前だろうか・・(詩人としての作品を読むようになったのは、正確には昨年の暮れあたりで、情けないが陳謝して訂正します。ということは、この半年あまりで、愚生の読書環境およびスタンスが劇的な変化があったわけで、我ながら驚愕している)。

恥ずかしながらそれまで、現代詩そのものは、長田弘、昔は吉岡実と吉本隆明しか読まなかった。それでいて、詩のようなものを断続的に書き続けている、偏屈な老人である。

ともかく詩作品ではなく、彼のブログがきっかけだった。時里さんは、地元播磨の山や野のフィールドによく出かける。その折に撮った動植物の写真の出来映えに好印象をもち、更新される記事だけを読み続けていた。アップされる写真のクオリティは相当高く、被写体の美しい草花や、生き生きした鳥や昆虫などが活写されている。四季がこんなにも身近に感じられる自然豊かなところで暮らしている。恵まれた詩人だなと、正直にいえば、やや嫉妬にちかい感情をもっていた。

このブログを書いているそばから、今日5月26日の「森のことば、ことばの森」には、ノイバラの花、外来の雑草 ヒメジョオンの花、そして小生が初めて見る雄のハッチョウトンボの成虫と幼いトンボをアップされていた。そのほかにも、むき出しに放置された古墳時代の石室もさりげなく撮っている。⇒https://loggia52.exblog.jp

氏の地元の兵庫県播磨における自然溢れるフィールドでの撮影であろうが、これらの写真を鑑賞するだけでも癒される。理想とするブログの典型を、そこに見い出した思いがしたものだ。

時里二郎の詩人としての仕事そのものに興味を抱いたのはブログを読みだして、不覚にも一年ほど経ってからだ。その経緯を簡潔にしるせばこうなる。

かつて地元にあった古本屋、鶉屋書店、その店主飯田淳次さんについて個人的に興味を持ち、いろいろ調べ始めた。で、関西にある「湯川書房」という奇特な出版社の存在を知った(今はない)。飯田さんが、その出版社にえらくご執心であることが分ったし、「湯川書房」の古書を扱うことで、店として箔がつくことは確かだと思われた。

まず、湯川書房の社主、湯川成一という人が、本を作ることにかけては全身全霊でのぞむ方だったということ。装丁、書体、紙、印刷などすべてにおいて本物志向で、なおかつ贅を尽くした限定本を出版した。もちろんズブの素人には無縁の本といえる、まさしく小生がそうだ。

稀覯本マニアなら是非とも手元に置いときたいという上質な造りで、湯川書房の本は本格志向のビブリオフィリアなら垂涎の的になった・・そんな内輪の情報も漏れつたわる。

しかしながら、今は亡き飯田さんを偲びつつ、湯川書房の本づくりを知り、それが「時里二郎」への運命的な繋がりとして、その線はしっかりと結ばれていった。何故ならば、「森のことば、ことばの森」には、まさしく「湯川書房」の名がタグづけされてい、時里さんの第一詩集がなんと湯川書房から出版されていることが分ったからだ! 

ブログにあった未発表の詩篇を読んで、時里二郎への興味はいっそう加速したし、過去の記事にもさかのぼって読むようになった。その後のことは、断片的にこのブログにも書いてきたので割愛する。

 

 ▲朗読会のときにサインをいただいた。そのときの写真を再び更新する。

時里二郎の詩集『名井島』について、これから何回かにわたって書く、その最初の記事である。端的には感想文であるが、素人ゆえに拙いものになろう。ただ、個人的な思い入れが念頭にあるし、『名井島』は、前回の『石目』とは違った意味で、私にとって熟読すべき詩集となった。

それは詩集全体が、時空を超えたSFかつ西洋の古典神話(サーガ)のような構成をもち、それは一方、日本の古代、王朝時代、さらに近代からAI(人工知能)が言語活動に影響をおよぼす未来まで、詩の読み手はイマジネーションを膨らまさせられる。日本詩歌伝統の万葉集から、近代の釈超空を見据えるポエジーさえまでも実感できる。さらに、未来におけるポエジー(詩魂)の行方を、肌で触れるような繊細なことば遣い、それさえも想像の範囲内になる(毎度大袈裟でゲスな表現ではあるが・・)、そんな稀有な詩集といっていいだろう。

(『名井島』は、ヒト文明消滅後のアンドロイドの記憶、その「ことのはのカタリ」もテーマの一端となっている)。

ことばを朗誦するだけで詩のもつ文学性を体感できる。これはレトリック的な技巧ではできないことだ。『名井島』を読むこと、それこそが今までにない経験となるだろう。

必ずしも意味を読み解く必要はない。書かれた文字、ひらかれた文字を見つめてほしい。その思いは装丁の望月通陽の仕事に敢然としてあらわれている。そう文字面をなぞるだけで、日本語としての言葉のリズム、抑揚を味わうことができる、それが至福となる。

ゆっくりと意味を考えながら、物語を追うことによっても、『名井島』が達成した文学性、そのポエジーは堪能されるはずだ。

『名井島』については、「文学としてのAI」の観点からも個人的にアプローチしてみたい。精読はたぶん無理だが、何回かの記事に分けて、『名井島』のテーマ性、構成、各章で使われている言葉の意味などについて言及してみたい。自分にとって負担にならないように愉しく、このブログを読んでいる方の目の毒にならないよう、断続的になるだろうがじっくりと書いていきたい。

 

▲『名井島』の装丁は望月通陽氏。この写真は、時里二郎「森のことば、ことばの森」から拝借した。

▲望月通陽氏の仕事は初見ではなく、4,5年前1998年の『版画芸術』(101号:北川健次特集)を買い求めたとき、ミニ特集としてピックアップされた望月氏の作品を知った。これも奇縁といえるだろうか。

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