キキオンのブログ「キキオン帖」を読む。
「教授が参加」という題で、小熊さんが寄稿している。
新宿のユニオンのプログレ館でキキオンの最新DVDが店頭にあり、その傍らに手書きで「民主と愛国」で評判の小熊教授が「参加」と書いてあるPOPを小熊さんが発見した。そのことで小熊さん本人は、「自分の研究と音楽はまったく関係のないことだ」といい、このPOPが販売促進になるのか疑問を呈している。つまりユニオンに来る客に対して、このキャッチコピーは無効に近いという判断である。私は必ずしもそう思わないが・・。
このPOPの作成者はたぶんキキオンの最新DVDを見てはいないだろう。もし見たとしたら、もっと音楽寄りのいいコピーが書けたはずだ。
ともあれ、どうやら小熊さんの不満の基調は、「参加」という言葉にあるらしい。実は私もこのブログで、小熊さんがキキオンに「参加」していると書いている。その時はキキオンの音楽を全く聞いたこともなかった。
私は小熊さんの著作と「小熊英二研究室」というホームページを通じてキキオンの存在を知ったわけだ。言葉を稼業とする人が音楽を愛好し、さらにバンドをつくって活動するのは珍しい。私の知る所では奥泉光、あと、辻仁成、山川健一・・。もっといるかも知れない。私は彼らの音楽を直接に聞いたことはない。奥泉光はテレビで見た。うまいサックスプレイヤーだと思った。しかしそれ以上の感慨はない。失礼かもしれないがオリジナリティは感じなかった。
小熊さんは主として「近代のナショナリズム」を研究している学者である。彼は一貫して人文社会学者の役割は「意識の医者」であると述べている。
所謂「進歩史観」「生産性向上」「能力主義」などの価値観は、資本主義のイデオロギーなどに関わらず、近代が生み出した普遍的な概念であるが、それに囚われ過ぎると果ては国家間の戦争を生み出すし、個人的には精神や体をも壊す。小熊さんはそれを止揚するのではなく、その因果関係を解き明かし、大衆がときに「原理主義」を求めたり、安易に「伝統主義」に陥る近代の「病い」そのものを研究しているのだと思う。
彼の研究対象は知識人の言動だけではなく、官僚、一般人、或いは被支配者・被統治者の言動まで丹念に拾い上げたものだ。そうして得られた知見は、現代の西欧思想さらには第三世界の社会科学の成果も取り入れられて、現代に生きる私たちの「意識の病い」の所在を明らかにする。
小熊さんは言う。「そして私は、誰よりも自分が重病であることを知っているからこそ、それを研究せずにいられないのである」(インド日記より)
小熊さんは一つ一つの病いの事象について、あきらめず丹念に診てくれる医者なのだ。
ひとつ、ひとつを決して疎かにしない。
これが小熊さんのギターのキーワードである。
私がキキオンのホームページを初めて見たとき、好きなアーティストのなかにジミ・ヘンドリックスが書かれていて驚いた。私が天才だと思うギタリストである。ツェッペリン、ペンタングルなどの名前もある。前者はジミー・ペイジ、後者はバート・ヤンシュだ。
はたして学者小熊英二はどんなギターを掻き鳴らすのか・・。私の興味はそこから始まったのだ。
キキオンについては何度も書いてきたから繰り返さない。
小熊さんのギターは、キキオンのなかでは音的にはリズムセクション、バンド的に言うとサイドギターのように聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。バッソ・オスティナート(持続低音)のような、一貫した重要な役割を果している。CDを聴いていると、それがよく分かる。一つひとつのギターの音色が粒のように流れている。前面に現れるのは十時さんの声や、佐々木さんのアコーディオンだが、それだけではキキオンの音楽は成立しない。
それは下北沢のライブで分かったように、十時さんと佐々木さんだけの演奏はあくまで「初源的」なのだ。それはそれで聞かせるが、やはり物足りない。
小熊さんはライブのときは、バンドのプロモーションをするときは懇切丁寧すぎるほど積極的である。
それでいて、私がはじめてキキオンのCDを買うとき、小熊さんは「ラマダン」を「元気が出るような明るい曲が集められています」といい、「夜のハープ」を「美しい曲が集められています」と、こちらが唖然とするほどの解説してくれた。はっきり言ってよろしくない。
プログレ専門の店にキキオンがおいてあるなんて稀有なことである。
プログレ愛好者が社会科学を好きな人がいる可能性もある。少なくともゼロではない。
新たな顧客の創造こそマーケティングの神髄であるならば、「民主と愛国」で評判の小熊教授が「参加」と書いてあるPOPは決して無駄ではない・・・。
やっぱりいないかな。