小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ベラスケスとは何者か

2017年01月05日 | 芸術(映画・写真等含)

 

 

スペインに行って、思ってもみなかった心的衝撃をうけた。

築いてきた思考方法の改変を迫られる、そんなインパクトのある絵画を見た。ディエゴ・ベラスケスが描いた「ラス・メニーナス」(侍女たち)である。プラド美術館において門外不出とされている名画中の名画だ。マドリッドに来ない限り実物を鑑賞することはできない。だから凄いのだ、と言いたいのではない。

ツアーに組み込まれたプラド美術館における滞在時間は約2時間ほど。それも、ベラスケス、グレコ、ゴヤの三人に限ってのツアー鑑賞(現地の日本人ガイドによる解説付き。美術に詳しいレアル・マドリッドファンの女性でなぜか緑色づくしの服装が印象的だった)。実際に鑑賞した時間は14,5分ほどで、「ラス・メニーナス」の何たるかを語る資格はないのだが、その印象の深さをどうしても語りたい。

この絵画を見、私がどんなショックを受けたのか。このブログを読んでいる方にとっては、どうでもいい話になろうかと思われる。そのことを百も承知で、独りよがりにならないよう書いてみたい。

▲ラス・メニーナス(侍女たち)。9人の人物と犬が描かれ、中央の白いドレスを着た少女がマルガリータ姫。画の奥の鏡のなかに2人の男女がいる。この絵画の表象構造の中心ともいうべき、つまりマルガリータの両親、王と王女の夫妻が鏡像として描きこまれている。左端の絵筆をもつ男は、もちろんベラスケス本人。

私はこれまでベラスケスという画家にそれほど興味をもったことがなかった。17世紀のスペイン画家の巨匠であり、西洋美術史において極めて重要な位置を占めていたことは知っている。ミッシェル・フーコーの「言葉と物」では、第1章のすべてが「ラス・メニーナス」を語ることに費やされていた

ベラスケスは、ハプスブルグ家の流れを汲むフェリペ4世に召し抱えられた宮廷画家であった。画家といっても、当時は一般的に現在のアーティストとしての認識はなかった。権力者によって保護されていた絵の職人ほどのイメージか。しかし、宮廷画家となれば肖像画を描くだけでなく、名画収集のキュレーションや室内の装飾なども受け持ったという。王宮の恵まれた環境のなかで己の才能を存分に生かした宮廷画家、ベラスケス。そんな浅薄な評価、見方しか私はできていなかったのだ。また、ベラスケスの作風も、いわゆるバロック芸術の古典的な美を表象しているだけにしか見えなかった。画集などで見るベラスケスには、その表象の巧みさを理解できても、描かれた対象に親しみや共感はない。

17世紀の絵画ならばやはりフェルメールやレンブラントに代表されるオランダ・フランドルの画家たちが好みだった。また、スペイン絵画といえばゴヤであり、ピカソ、ミロ、そしてアントニオ・ロペスが、私の一番のお気に入りだったのであるのだが・・。

 

その「ラス・メニーナス」の実物を見、感じたインパクトとは。

予想を超える、とても大きい絵画だった。描かれた人物はほとんど等身大の大きさ。その存在感に圧倒され、そこに描かれている宮廷内の雰囲気は、まさに1656年にタイムスリップする、そんな異次元を味わう感じだった。「感動」という二字で言い表せるものでもなく、「心に響く」あるいは「胸を打つ」という表現でも言い足らない。

 

▲ネット上にあった。「ラス・メニーナス」の大きさが分る。何かの事情で別の大空間に移されたのであろう。実際には撮影は不可で、ベラスケスの宮廷内のアトリエを模した広さほどの空間に展示されていた。(注1)


私が見た「ラス・メニーナス」は、王室内にあるベラスケスのアトリエの中にあった絵画を、現実さながらに再現した迫真力をもって存在した。これだけの大きなカンバスに描かれた背景には、スペイン・ハプスブルグ家の王宮の、人々が集うメインの室内に飾られることを前提にして描かれたという理由しかない。

ある距離をもってしか鑑賞できない。ということは、そのような距離をおいて「王家の家族」に忠誠を尽くす臣下に配慮して、ベラスケスは描いたのかもしれない。いや、全体像をよくみても、自分が描いた絵画を鑑賞する力はないと侮っていたのか。違うのだ、ベラスケスはただ、雇い主フェリペ4世その人の感性だけに訴えて描いた。わたしはそう思った。

 

ここでベラスケスの凄さを端的に表現している中野京子の文章を引用する。この方のように書けるなら、私もひとかどの人物になれただろうか。

何しろ複雑でたくらみに満ちた作品なので、いろいろ想像できるのが楽しい。そこへベラスケスの腕の冴えが加わる。実際に本作を見た人は誰もがその魔術に驚嘆するのだが、銀糸をたっぷり織り込んで煌(きら)めく王女のスカートなど、近づいて見ると単に筆で乱暴に絵の具を塗りたくっただけで、何を描いたかわからないほどである。ところが再び画面から離れると、やはりそれはみごとな布でありレースであり、それ以外の何ものでもないと納得させられる。荒っぽいまでの大胆さが、一定の距離を置くなりたちまち繊細さに変わる、その不思議な魔力! (「怖い絵2」中野京子 朝日出版社)

 

実際に見た私はといえば、ただただ作品の大きさに圧倒されっぱなしで立ち尽くすだけだった。鏡に描きこまれている王と王妃も確認したが、その他の描きこまれた実寸大の人物、室内装飾、その時代の空気感や光線の明暗などを実感しただけであった。なぜ中野京子氏のように、立ち位置を移動し視点を変えてベラスケスの絵筆づかいの見事さを確認しなかったのか。鑑賞する時間が少なかったとはいえ、いま悔んでも悔やみきれない。

日本に帰ってから頭のなかで残像を反芻しても、この老衰した頭脳ではもう復元しない。図書館で中野京子の本を借り、さらに「言葉と物」を再読した。そのとき、思ってもみなかった内的衝撃が身体のなかを駆け巡ったのである。私は「ラス・メニーナス」を見たとは言えない。ほぼ30年経過したが「言葉と物」を読んだとはいえない。今回フーコーをあらためて読み直して、彼の精緻な表象分析と明晰な表現力にひれ伏したいおもいだった。

冒頭に書いたごとく、自らの思考回路を改変しなくては、これからの美術鑑賞や読書体験が無駄になる。そんなふうに自虐的なまでの心境に至ったのだ。

 フェルメールはじめ多くの具象絵画を見てきたが、これほどにも心を震撼させる画家はいなかった。
「ラス・メニーナス」には小人、矮人が登場している。この時代には、「慰みもの」として宮廷には多数いたという。べらぼうな値段で売り買いされた奴隷であるが、宮廷には欠かせない役割とステータスをもっていた。そして、ベラスケスは、彼らを矜持ある人格者として、魂を込めて描いている。
彼らについても中野京子氏の秀逸な文章があるので、私が何を言わんかになりそうだ。この辺で筆をおこう。
 
 
▲ベラスケス「セバスチャン・デ・モーラ」。道化とは思えない凛々しい顔つき。視線をそらさずこちらの表情を鋭く読むような目つき。中野京子氏は「こぶしを握りしめ」てと書いていたが、私には指を何かの罪によって切断されたか、生まれつき失われていた風に見える。しかし、「彼の精神と肉体の、魂と現実の、大きすぎ残酷すぎる乖離が、見る者にひりひりした痛みさえ感じさせる」という氏の表現には感服させられた。
 
 
(注1)エウヘーニオ・ドールス「プラド美術館の三時間」(ちくま学芸文庫)には、ベラスケスの作品を一堂に集めて展示していた写真があった。かつてはそれがレギュラーであったと思われる。現在は、グレコの次に、ベラスケスの大小の展示室、そしてレンブラント、ムリーリョの各室へと続いて配置されている。
 

 

 

 


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