小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

切れぎれの近況について③

2023年03月06日 | エッセイ・コラム

少しずつモノが書けるようになってきた。

日常の立ち居振る舞いがもどかしく、前頭葉が働かない、脳幹だけで生きているなぞと書いていたが、端的に書けば一種の「思考停止」に陥っていたのだ。自分の頭で物事を考えられなくなると、他人様の思考や言説に乗っかることで事足りた気持ちになる。他者発のロジックをなぞって、それを己の知的行為だと錯覚するのに等しい。これは人間としては、もっとも頽廃した姿をさらすことでもありやしないか。

下痢に悩まされ寝たきりのような状態にあったとき、お笑い(特に漫才の)サンドウィッチマン、ナイツ、爆笑問題などのユーチューブ(音声版)をずっと聴いていた。ひとしきり楽しむといつの間にか惰眠を貪っている。ひとつのコンテンツが3時間ほどもあるので、何もせずにへらへらと笑っていれば時間が過ぎる。深夜になって下痢症状が深刻になると寝られなくなる。昼間も深夜も、起きているのか眠っているのか、中途半端な時間を過ごしていた。

刹那的な快楽、娯楽ばっかりに現を抜かしていると、さすがに脳が氾濫をきたすのか、何かに集中できるモード転換を探し求めるようになる。人間の脳は不思議なもので、ある方向に偏向すると、その反対方向に作用するようなスウィッチが入るのかしらん。

無駄な時間を過ごすなら、ふつうは読書ぐらいでお茶を濁すのが無難なところ。しかし最近は、寝ながらの読書は目や腕も疲れ、集中力も持続しない。ましてブログを書くためのネタを考える、身体的な余裕もない。とどのつまり思考停止状態に入りやすい心身になった、老いの特長が顕在化したのだから怖い。

そこで偶然にも手を染めたのがギャンブル。長いコロナ禍により、ネットでの競艇、競輪などのギャンブルに、なぜか一部の若者たちがのめり込んでいるという。そのバックグラウンドを知りたいこともあった。実は二十歳前後のころに、偶然にも競輪に熱中したことがある小生、思考停止状態のままにネット上のアカウントを作成した(入院中にスマホでアクセス)。

今回は5000円ほどを原資に、100円単位で車券を購入した。昔取った杵柄なのか、いつのまに2,3万円ほど手持ち資金を増やし、退院後もなんやかんやと4ヵ月ほど楽しんだ。100円の車券が2、3千円、時に1万円と的中。そんな時は、退廃した脳はかなり活性化するのか、ある種の全能感に満たされる。この歓びは、体調の不全をかなり補うというか忘れさせてくれた。案の定、手持ちの遊び金は使い果たし、現在は賭けたりはせずに、自分流の予想を立て、その勝敗の的中結果だけを愉しんでいる。

さてさて。自分の思考停止のあれこれを書いてきたが、そんな中だからなのか、如何しようないことも頭を支配していた。

ウクライナ戦争の膠着化は今後さらにマンネリ化し、世界全体をとことん疲弊させるという見通しとともに、日本が拠所ない状態になっていくだろうと考えていた。根拠ない予測だが自分なりに確信を得るものがあった。ウクライナだけを考えるのではなく、この戦争は現代文明の退廃を象徴するメルクマールとなるはずだ。

ロシア帝国は、そもそも負けを認めるという方針が歴史的にもなかった国だ。独ソ戦にしても、2000万に近い戦死者を出したにも関わらず、スターリンは戦争を止めなかった。連合軍(実質的にはアメリカ軍)がナチスを倒して、ドイツを無条件降伏に導いた。おこぼれを貰うていでソ連は戦勝国になったが、スターリンは多くの犠牲者の責任をとることなく、生涯独裁政権を貫いた。プーチンもスターリンと同じ轍を踏んでいるし、ロシア国民の多くも歴史の罠から逃れられない。

同じく日本もまた敗戦を認めない国だ。また、捕虜として生存する戦術、軍法もない稀有な国だった。主要都市が無差別爆撃を受け、民間の厖大な死者が出ても敗戦は認めなかった。あげくの果て、広島、長崎に原爆を落とされ、やっと天皇が事実上の負けを宣言して戦争は終結した。原爆が戦争を終結させる、或は戦争を抑止する、そんな絶大な効果があるという起源説もある。

戦争を放棄したことで、今日の平和がある。この国の安全保障はアメリカの力に依存してきた。今日、アメリカの弱体が可視化され、これからは自力での安保政策を展開するという、迫る来る重要課題を度外視して・・。

要するに、敗戦を想定できない戦略をもった国が、さらに再び戦争ができる国をめざすという。細かい、周到な議論ができない政治家、リアリスティックな戦略と軍事論のことしか頭にない専門家、これらの有能な人たちは、戦争に勝つだけことしか考えられない、のでは?

ウクライナ戦争の行方を思案すればするほど、ペシミスティックな考えに支配されてゆく自分はなんとも哀しい。普通の人ならば、もっと身の回りの大切なことに心を寄せるものだ。限定的な「生」を生きている身なので、もっとハートフルなものに関心をもつべき、と分かっているのだが・・。

そう、実際には「死に方」に頭が占拠されていて、如何にしてゼロで終わるかにしても、残すべき大切なものは何かを今さら考えるというのも悩ましい。

同時に、古稀を過ぎた小生にとっては、自己の無力感を痛切に感じざるを得ない。未来のイメージというか輪郭が把握できたところで、誰かが共感するものでもない。拙い異論、反論を唱えたところで、「なしの礫」だから、どうすることもできない。

いやいや、どうもジェットコースター的な乱文を綴っている。すこし真面目な思考を取り戻そうとして、前頭葉が混乱の極みを呈しているのか・・。近々の再入院を前に、不安に怯えているだけなのか・・。読者のご寛容、ご斟酌を乞いながら、この雑文を終わりにしたい。

 

▲「カータン」という名の幼い鴉のことを以前に書いた。鴉はかなり高い知性をもつ鳥だが、人間に対して何かしらの恩情を感じ、花をプレゼントすることもある? これはその貴重な証拠である。暖かくなってから、会いに行くはずだったが、どうなるかな。撮影は、カータンとの友情を育んでいる友人である。

 


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