▲デンファレ、妻が手塩にかけて育てた。花言葉は、恋人や夫婦をさして「お似合い」。主人と飼い犬の関係をさして、言わないな。
散歩の途中で入った古本屋で、探していた遠藤周作の文庫本『ぐうたら人生入門』を見つけた。コメントを寄せてくれた原文子氏のお奨めは『ぐうたら人間学』であったが、「ぐうたら」の名を冠したタイトル。ま、いっかと、同じ遠藤の『死について考える』も一緒に棚からとりだしてお買い上げ。
前者は60年代に、硬軟両方をガンガン書いていた40代の頃の著作。あの「沈黙」(1966)を書き下ろした後の、心身ともに脱力してグタっとしながらも、ユーモアを頼みに書いたエッセイ集。後者は80年代中期頃の作品で、題名で察せられるがごとく、病魔と向かい合う晩年期に差し掛かる頃の作品。(時間をおいて熟読したく思う)
「ぐうたら」という言葉は好きである。全面的に反対できない、という意味で好きである。
どうやら江戸時代から使われていた言葉らしい。「ぐう」は「愚(ぐ)」の長音化したもので、「たら」は「弛む(たるむ)」が変化した、という由来だそうな。意味はそのまま、「ぐずぐずして、気力のないさま。のらくら。また、そういう人」と、辞書に記述されている。
ただし、異説あり。スコットランドのある地方で怠けることを「グウタル」といい、怠け者を「グウタラー」と呼ぶことから、これが語源だとする。由来、経緯がはっきりしない俗説だが、ホントだったら愉しい哉。きちんと調べる価値がありそうだ。(※追記)
『ぐうたら人生入門』は、まだ拾い読みというか、目次が面白く気になるタイトルを選んで読んでいる。「人生の寂寞を感じるとき」というエッセイは、「駄犬と人間が似ている話」と副題があり、遠藤家の飼い犬の話が出てくる。
その頃のアメリカのTVドラマ「名犬ラッシー」に息子が憧れ、知人のつてを頼ってラッシーとは雲泥の差ほどもある駄犬を飼うことになった。家族以外の誰にでもシッポをふり、番犬として役に立たない。そのうえ、飼い主(遠藤)に似てだらしない姿でウンコをする。その恰好が「寂寞」としていると遠藤は嘆く。さすが小説家だと唸らせる情景描写、実感にみちた文体で叙述する。
くるしそうに後脚で立って、眼をむいてウンウンした表情で、尻で地面をふむようにして・・あの恰好をじっと見ていると、ああ人生はクダラン、生きることは空しいという心境にさせられるのである。
▲どちらが「駄犬」としてふさわしいか。好みで別れるであろう。あなたはどっち派?
駄犬つながりで、「怠惰」が似合う梅崎春生の飼い犬のはなしも紹介される。
エスという名の飼い犬は梅崎の父の生まれ変りらしい。梅崎は酔うとなぜか犬を殴った。で、「僕はワルイ男だ、父親をなぐった」と泣きながら電話をかけてきた。哀しいはなしだ。ただ、その駄犬エスは嫌気がさしたのだろうか、火・木・土になると何処かに行ってしまった。どういうわけか、一日おきに帰ってくる。実家を忘れない、恩義があるという風に。
ある日子供を連れて梅崎が散歩に出かけたら、他の家の前で番犬になっていたエスを見た。鎖で繋がれてはいず、立派な犬小屋と、食事もたっぷり与えられていた。しかし、梅崎の顔をみても知らんぷり。声をかけてもあんたとは関係ないとばかりの無表情。駄犬、駄犬と馬鹿にしてはいけない、犬にも犬の事情があるんだ、と梅崎は胸のうちを語った。
時代の哀しさ、人間の哀しさを、犬は投影する。犬は飼い主に似るが、飼い主もまた犬に似るのだと、遠藤周作は嘆息し飼い犬を眺める。
「拙宅のグータラ犬は、私とあまりによく似ている。彼は私と同じように世のため人のために役にも立たず、半日、グウグウねむり、人には愛想いい。梅崎家の犬もどこか梅崎氏に似ていたのである」
後脚で立ってウンコを力む表情をみれば、それは飼い主そのものの表情だと。駄犬こそ飼い主を顔をうつす鏡だという。だから、駄犬を飼えと遠藤は言っていた。
私だったら、ぐうたらな猫をかう。猫のぐうたらに、時代の哀しさを見ても、人間の哀しさを投影はしないだろう。それに、どんなに飼い主に似てこようと、隠れてウンコすると思うから・・。
さらに、以上の出典として、民明書房刊『ナマケモノがまだ見てた』(初版発行2001年6月2日)なる書籍を紹介し、その引用の信憑性を高めている。ところがどっこい、さに非ず。筆者のように調べた方もいて、この出版社が架空の会社であることを突き止めた。なんと、漫画『魁!!男塾』に登場する架空の出版社だと判った由、そのときの徒労感は半端なかったと吐露されていた。
というわけで、ネット空間を迂闊に利用し、訳知り顔で教養をひけらかすと「ぐー」の音もでないことになるかも。今後、どなたかが「ぐうたら」の語源を探索したとして、スコットランド云々の由来が出てきたら、眉に唾をつけてあたってほしい。なお、件の先生、「酔眼教師」と名乗るがこの2,3年なんの記事も書いていない。この方の表現の自由・権利を尊重して、筆者としては何も云わないが、先の記事は削除してほしいと願う。