秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

菜菜子の気ままにエッセイ   SANE著

2007年09月23日 | Weblog
彼岸入り
曼珠沙華の鮮やかな赤が、あちらこちらに、見事な赤を散らせながら、彼岸の頃を教えてくれる。まっすぐに咲く。潔く咲く。打ち上げ花火のように、花の形だけで、勝負している。怯まない「赤」が秋の青空に映える。
東祖谷には、都会のような造られた墓地はない。昔から集落ごとに墓場がある。家の周りに土地を持つ方々は、すぐ傍に墓を建てる。または、親戚の土地に墓を建てさせて頂いたりする。墓地のあちらこちらで、掘りオコシタ墓石がやたらと目立つようになった。一カ所でお参りが出来るようにと、随分と代々墓が増えた。
私は余り、お墓を集めることは好きではない。あの世を単純に信じている私は、想像しただけでもゾッとする。心地よく昼間をしている空間に、顔も見たことの無い人や、大嫌いだった人の子孫が同じ〇〇家という理由で、片付けられる。そんな気がしてならない。主人はきっと知らん顔して、わめき立てる私にこう言うだろう。
「ワアは、死んでも、めんどいのうや~」これを標準語に訳すると
「君は死んでも、我が強いね」
私が、気難しいのは、個性だ。罪ではない。どうせ、私の事だから墓の中に家族以外が入ってきたら、納骨した人を怨む
主人の制止を振り切り「祟り」の念を送るだろう!考えただけで、ワクワクする。
とにかく、拝んでくれる人がいなくなっても構わない。石が苔だらけになってもカマワナイ。嫌な仏様とは一緒にいたくない。でも、仏様になってしまった人のお顔は、とても美しくすべての邪悪から開放されて見えるので、嫌いと思っている人の子孫も、意地の悪い遺伝子から開放されているんだろうか?判らない。もし、そうだとしたら同居することを、この寛大な心で許してあげようか?と一瞬思うけど、私は「めんどい」ので、この意思を貫きます。
「お彼岸」とは仏様に手を合わせながら、自分を見つめること。あの世とこの世は相対してると私は、思う。腹が立ってイライラして、お墓参りに行く人はいないだろう。お墓に供える、シキビも花花もお菓子も全てこちらを向いている。私達はお経を唱えながら、お墓とまっすぐに向かいあっている。唱えた声は再び自分の耳に戻る。私達現世に住む人間は、彼岸の場所に住む仏様達に、生かされている。
「死んだら骨は適当にバラマイテ」という人がいるが、本当にそうだろうか。祖谷で生涯を送った人に「あなたの骨はシベリアに撒いてきます。
と言われたら、なんか安心しないのでは、ないだろうか。
「彼岸」とは、「慈悲」の心を持つことだ。終わった数々の魂に追悼の念を贈ることだ。共に、寄り添うことはすべてが、生かされていることの感謝に繋がる。心を寄り添うことのないお墓参りなら、無理をして行く事はない。彼岸のこころを持ち、一日を大事に生きていこう。ささやかな日常の中で、他人の記憶の中にいい記憶として残れる自分であろう。物体は消滅しても、魂は永遠だ。「死」を成し遂げる為に、もう一度、死語となりつつある「一生懸命」をやってみよう。
主人のお墓のお供えを、ゴンが必死で食べていた。シッポは全回転!すぐになおりそうもない私の武器?「泣き虫」病は、いつになったら、特効薬ができるんだろう。
「人」が死んで行く。理不尽な「死」でない限り、当たり前のこと。人はゆっくりと壊れていく。自然界の営みの中で、自然な事。
そして私は見事に、再婚した。仏様と再婚した。 合掌!