巨匠瑛九の登場の前に、その場の空気を一変するような衝撃を受けた作品に出会った。浦和生まれの加藤勝重(1914〜2000)の日本画『響』で、堅牢なマチエールで壮大な瀑布の流れの一瞬を封じ込めている。ブルーの幽霊な岩肌に囲まれた深い谷底へ一気に流れ落ちていく滝の水の流れに生命が宿っているかのよう。水のしぶきから巻き起こる空気の層から冷気を感じて、絵の周りの空間に波動している感覚を味わう。なんとも言えない清々しさと水の躍動感!
加藤は浦和に終生住み、初めは洋画だったが、日本画に転向し、奥村土牛に師事した。雄大な山岳風景や火口に息吹を吹き込んだ。実は20年以上前に日本画教室で加藤に教えてもらったことがある。画壇で活躍されていることも知らずに、加藤の日本画教室を受けていたが、丁寧で優しかった印象だった。
加藤勝重『響』1990年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録p 228より
この展覧会のクライマックスは、世界的に知られる革新的な前衛美術の先駆者と言われる瑛九(本名杉田秀夫)(1911〜1960)の作品コーナーであろう。1911年に宮崎に生まれ、1950年に浦和仲町に移住し、翌年浦和本太にアトリエを構えた。多くの浦和画家が住んでいたのは鹿島台や別所沼などがある駅の西側だが、対して瑛九は田園地帯が続く駅の東側に住んだ。学生時代から束縛されることを嫌った瑛九は、16歳の時に独学で中村彝などについて優れた美術評論を発表した。その後評論家として文芸誌などでも活躍し、リトグラフ、エッチング、ガラス絵、フォト・コラージュなど多彩な分野で実験的な創作活動に挑戦し続けた。
1936年25歳でフォト・デッサンと呼ばれるカメラを使わない写真技法に絵画的な手法を取り込んだ作品を制作し始め、作品集『眠りの理由』を発表し、その年に本名から瑛九に名前を変え、画壇に鮮烈なデビューを飾った。展覧会では白黒のフォト・デッサンの作品群が展示されている。
瑛九『かえろ、かえろ』(『瑛九 フォト・デッサン作品集真昼の夢』より)1951年うらわ美術館蔵 作品画像は図録p101より
浦和に越した1950年、自由と独立の精神を尊重し、既成の美術団体や権威主義を否定して、公募展に出品しないという趣旨の「デモクラート美術家協会」を森啓や早川良雄らと結成した。後に国際的に活躍した若き日の池田満寿夫、靉嘔、河原温らは、浦和の瑛九宅をよく訪ね、遅くまで議論し合ったという。瑛九の存在は、ますます画家の街浦和の名を高め、当時の浦和の芸術家たちの革新的な視点を促すきっかけになったかもしれない。
「彼に魅せられた多くの前衛画家や写真家の卵、評論家、版画家、デザイナーなどが、昼夜に関係なく、遠慮会釈なくやって来ては、瑛九の貴重な制作時間を費やしていた」。写真家の玉井瑞夫が1994年に記したフォトエッセー「瑛九逝く」の一文には、当時の瑛九宅のにぎやかな様子がうかがえる。(日本経済新聞2006年4月30日p21「美の美 結集する個性―アトリエ村三景 上」より)
1957年にデモクラート協会が解散すると、瑛九は落ち着いた浦和の地で油彩画の制作に没頭した。瑛九はこう語っている。「ここに(浦和)住むようになってから創作欲がもりもり湧いてくるような気持がするのです」。(「身辺の記:うらわの人(28)」『浦和市広報 市民と市政』第83号、1958年8月1日 図録p 233より)そして、48歳の若さで亡くなるまでの浦和で過ごした9年間精力的に制作し、生涯に渡って膨大な量の作品を残した。
チラシの表紙に使われている1957年の『作品』は、大画面ではないが、カラフルなドットで形成された小宇宙が目に焼き付けられる。まるでオルゴールのメロディが奏でられるかのようなリズムが感じられる。黄色と青の色彩のかけらをくぐりながら、中心の赤い粒でできた惑星に吸い込まれていく。なんて心地よくて楽しい作品だろう。
瑛九『作品』1957年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は展覧会図録p 237より
亡くなる1年前の1959年、病床の最晩年に描いた点描画の2つの大作『ながれーたそがれ』と『田園』は、感性のおもむくまま季節や時間の流れをドットで埋め尽くす。緑に囲まれたアトリエから春の息吹を感じながら、その生命力を一つ一つドットに込め、丹念に仕上げていったのだろう。ベートーヴァンの「田園」を繰り返し聞いていたという。音楽と呼応するかのようなドットの軌跡の合間に見える眩い色彩の輝き。見ているものは無限の宇宙空間へ引きずり込まれ、浮揚感をおぼえるぐらい幻想的な瑛九独自の世界観が感じられる。誠に贅沢な空間である。
瑛九『ながれーたそがれ』1959年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録『浦和画家とその時代展2000年』p103より
瑛九『田園』1959年加藤南枝氏蔵(埼玉県立近代美術館寄託) 後期展示 作品画像は展覧会図録p 244より
「瑛九は神に選ばれ、神に代わって「田園」を描き上げた。幾百幾千年の時間の中で、この絵の謎は解き明かされ、幾多の人々をニルバーナにみちびくであろう」と1975年の紀伊國屋画廊の瑛九「田園」展のポスターの裏面に書かれている。(埼玉県立近代美術館ニュース「ZOCALO 」2018年12月〜1月号 p1「特別展示:瑛九の部屋」より)浦和でこのような重要な作品をエネルギッシュに生み出していった。ひょっとしたら、死期が近いことを悟って、命と引き換えに自分の身を削って、絵の中に永遠の生命を託したのかもしれない。
埼玉県立近代美術館で2019年にこの『田園』のユニークな展示が行われた。「特別展示:瑛九の部屋」(MOMASコレクション第4期)というタイトルで、小さな部屋を暗室に説え、『田園』だけが展示された。作品を照らす光の明るさを自由に調整できるように展示。その時の光による色彩の変化が「カノン『田園』の光と影〜『瑛九の部屋』へ行こう #1.1」というYouTube動画によって記録されている。https://www.youtube.com/watch?v=vtqbGOZSoEM&t=180s
その4では伝統工芸作家を紹介し、その5では現代作家の福田尚代の本に関係が深い作品にフォーカスしたい。
文責 馬場邦子 〜その4に続く〜
加藤は浦和に終生住み、初めは洋画だったが、日本画に転向し、奥村土牛に師事した。雄大な山岳風景や火口に息吹を吹き込んだ。実は20年以上前に日本画教室で加藤に教えてもらったことがある。画壇で活躍されていることも知らずに、加藤の日本画教室を受けていたが、丁寧で優しかった印象だった。
加藤勝重『響』1990年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録p 228より
この展覧会のクライマックスは、世界的に知られる革新的な前衛美術の先駆者と言われる瑛九(本名杉田秀夫)(1911〜1960)の作品コーナーであろう。1911年に宮崎に生まれ、1950年に浦和仲町に移住し、翌年浦和本太にアトリエを構えた。多くの浦和画家が住んでいたのは鹿島台や別所沼などがある駅の西側だが、対して瑛九は田園地帯が続く駅の東側に住んだ。学生時代から束縛されることを嫌った瑛九は、16歳の時に独学で中村彝などについて優れた美術評論を発表した。その後評論家として文芸誌などでも活躍し、リトグラフ、エッチング、ガラス絵、フォト・コラージュなど多彩な分野で実験的な創作活動に挑戦し続けた。
1936年25歳でフォト・デッサンと呼ばれるカメラを使わない写真技法に絵画的な手法を取り込んだ作品を制作し始め、作品集『眠りの理由』を発表し、その年に本名から瑛九に名前を変え、画壇に鮮烈なデビューを飾った。展覧会では白黒のフォト・デッサンの作品群が展示されている。
瑛九『かえろ、かえろ』(『瑛九 フォト・デッサン作品集真昼の夢』より)1951年うらわ美術館蔵 作品画像は図録p101より
浦和に越した1950年、自由と独立の精神を尊重し、既成の美術団体や権威主義を否定して、公募展に出品しないという趣旨の「デモクラート美術家協会」を森啓や早川良雄らと結成した。後に国際的に活躍した若き日の池田満寿夫、靉嘔、河原温らは、浦和の瑛九宅をよく訪ね、遅くまで議論し合ったという。瑛九の存在は、ますます画家の街浦和の名を高め、当時の浦和の芸術家たちの革新的な視点を促すきっかけになったかもしれない。
「彼に魅せられた多くの前衛画家や写真家の卵、評論家、版画家、デザイナーなどが、昼夜に関係なく、遠慮会釈なくやって来ては、瑛九の貴重な制作時間を費やしていた」。写真家の玉井瑞夫が1994年に記したフォトエッセー「瑛九逝く」の一文には、当時の瑛九宅のにぎやかな様子がうかがえる。(日本経済新聞2006年4月30日p21「美の美 結集する個性―アトリエ村三景 上」より)
1957年にデモクラート協会が解散すると、瑛九は落ち着いた浦和の地で油彩画の制作に没頭した。瑛九はこう語っている。「ここに(浦和)住むようになってから創作欲がもりもり湧いてくるような気持がするのです」。(「身辺の記:うらわの人(28)」『浦和市広報 市民と市政』第83号、1958年8月1日 図録p 233より)そして、48歳の若さで亡くなるまでの浦和で過ごした9年間精力的に制作し、生涯に渡って膨大な量の作品を残した。
チラシの表紙に使われている1957年の『作品』は、大画面ではないが、カラフルなドットで形成された小宇宙が目に焼き付けられる。まるでオルゴールのメロディが奏でられるかのようなリズムが感じられる。黄色と青の色彩のかけらをくぐりながら、中心の赤い粒でできた惑星に吸い込まれていく。なんて心地よくて楽しい作品だろう。
瑛九『作品』1957年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は展覧会図録p 237より
亡くなる1年前の1959年、病床の最晩年に描いた点描画の2つの大作『ながれーたそがれ』と『田園』は、感性のおもむくまま季節や時間の流れをドットで埋め尽くす。緑に囲まれたアトリエから春の息吹を感じながら、その生命力を一つ一つドットに込め、丹念に仕上げていったのだろう。ベートーヴァンの「田園」を繰り返し聞いていたという。音楽と呼応するかのようなドットの軌跡の合間に見える眩い色彩の輝き。見ているものは無限の宇宙空間へ引きずり込まれ、浮揚感をおぼえるぐらい幻想的な瑛九独自の世界観が感じられる。誠に贅沢な空間である。
瑛九『ながれーたそがれ』1959年うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録『浦和画家とその時代展2000年』p103より
瑛九『田園』1959年加藤南枝氏蔵(埼玉県立近代美術館寄託) 後期展示 作品画像は展覧会図録p 244より
「瑛九は神に選ばれ、神に代わって「田園」を描き上げた。幾百幾千年の時間の中で、この絵の謎は解き明かされ、幾多の人々をニルバーナにみちびくであろう」と1975年の紀伊國屋画廊の瑛九「田園」展のポスターの裏面に書かれている。(埼玉県立近代美術館ニュース「ZOCALO 」2018年12月〜1月号 p1「特別展示:瑛九の部屋」より)浦和でこのような重要な作品をエネルギッシュに生み出していった。ひょっとしたら、死期が近いことを悟って、命と引き換えに自分の身を削って、絵の中に永遠の生命を託したのかもしれない。
埼玉県立近代美術館で2019年にこの『田園』のユニークな展示が行われた。「特別展示:瑛九の部屋」(MOMASコレクション第4期)というタイトルで、小さな部屋を暗室に説え、『田園』だけが展示された。作品を照らす光の明るさを自由に調整できるように展示。その時の光による色彩の変化が「カノン『田園』の光と影〜『瑛九の部屋』へ行こう #1.1」というYouTube動画によって記録されている。https://www.youtube.com/watch?v=vtqbGOZSoEM&t=180s
その4では伝統工芸作家を紹介し、その5では現代作家の福田尚代の本に関係が深い作品にフォーカスしたい。
文責 馬場邦子 〜その4に続く〜
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