途中で、こんな花を見かけて思わずパチリと、何んと言う花なんでしょう?
宝仙中学・高等学校の前を通り進みます。
広い境内の宝仙寺に到着しました。ここには、いろんなものがありそうです。
最初に目にしたのは、否が応でも目に付く三重塔です。
おやっ、これは富士塚かな?それにしてはちょっと小さいようですね。
近づくと、石臼塚という事でしたが、何でしょう? 中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。とあります。昔この一帯はかつては製粉業が地場産業であり、その歴史を伝えるため、石臼を積み上げ噴水の塚として保存しているようです。石臼塚は、東京都内では他に小金井市の小金井神社や昭島市の拝島神明神社にもあるそうです。
近くに、こんな碑があります。調べて見ると、明治時代から昭和初頭まで、中野町役場が、その後中野区役所がこの宝仙寺境内に置かれていたそうです。中野町(なかのまち)とは、かつて東京府豊多摩群に存在した街の一つで、1897年(明治30年)に生まれました。現在の中野区の南部にあたる地域で、現在の地名では、中央、中野、本町、南台、弥生町、上高田の一部にあたります。明治時代中期まで青梅街道沿いを中心として産業が発展し、甲武鉄道の開通、中野駅ができると、徐々に住宅化が進み、さらには関東大震災以降、市街化が進みました。産業化と言えば、中野には現在でも様々な伝統工芸の工房があるのですが、当時、江戸の中心部から人々とともに職人も移ってきたと言われています。その後1932年には、中野町、野方町が合併し、東京市中野区となりました。このようなことでした。
このような案内板が立っています。「堀江家墓所」となっていて、ここにお墓がある名士なんですね。どんな由来なんでしょう。十二代重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から堀江家の先祖・兵部が農民十数名とともにこの地に来て、弘治元年(1555)に中野の開発に着手した、とされています。当時関東を支配していた小田原北条氏から小代官に、閉幕後も歴代の当主は中野村の名主に任命され、有力な指導者となりました。堀江家の業績により、中野村は次第に発展。その聞の村政及び幕府との関係文書は「堀江家文書」として東京都立大学に保管され、研究に供されています。堀江家は将軍鷹場の村々への御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しました。明治以後の業績も大きく、中野区の発展の礎といえます。この中野区の基礎を築いた人物のお墓があるようです。
ここが本堂です。ところで、宝仙寺を見て行くと、真言宗豊山派寺院の宝仙寺は、明王山聖無動院と号します。宝仙寺は、寛治年間(1087~94)源義家によって創建されたと伝えられ、江戸時代には数多くの末寺を擁した中本寺格の寺院でした。境内には(株)丸井元会長の青井忠治氏により建立寄贈された宝仙寺大師堂があり、赤塚不二夫さんなど著名人の大型葬に利用されています。御府内八十八ヶ所霊場12番札所、関東三十六不動15番不動です。当寺所蔵の文化財:宝仙寺の石臼塚 とあります。
つづく