もう一度境内を回ると、あの寺宝案内板にあった観音堂の近くにやって来ました。
観音堂は、室町時代初期に建立されたと推定され、棟札によれば、もとは飯能市白子の長念寺観音堂であったが延享元年(一七四四)高倉寺の第五世白翁亮清が譲り受けて移築したものだそうです。その後昭和二十六年に修復が行われ、観音堂の平面形態は方三間で、周囲に縁を持ち、正面の産間と側面の手前市間を桟唐戸とし、内法貫上には弓形の欄間を設け、側面の中央一間に花頭窓を配しています。柱は粽柱で、軒は一軒扇垂木としていて、屋根は長刀反をもつ入母屋造で建立当時は茅葺であったが、現在は茅葺様銅板葺に改められていて関東地方における禅宗様式の代表的な建造物の一つです。また、堂内の本尊背後におかれている鉄製灯篭は室町期に流行した形式を伝えているそうです。
ところで、この高倉寺というお寺は曹洞宗の寺院で光昌山高倉寺と称し、建立されたのは天正年間(一、五七〇年代)のはじめと推定されるそうです。開山は飯能市の能仁寺第三世材室天良禅師で、ここには国指定重要文化財(昭和二十四年指定)の観音堂があります。この御堂は、もと飯能市白子の長念寺に建てられてあったものを、延享元年(一、七四四年)高倉寺の第五世白翁亮清がもらいうけ、修理を加え移築したもので、創建は、室町時代初期と推定される。この建築には、方三間、一重、入母屋造、屋根は茅葺形銅板葺、粽を有する円柱、両肩の張る花頭窓、桟唐戸、組物など随所に禅宗様式がとり入れられており、本県を代表する優れた古建築の一つである。また、観音堂内には、中村芝翫(のちの四代目中村歌右衛門)の「九変化」の扁額が保存されている。これは、鳥居派五代目清満の作と伝えられており、江戸の小高亀吉が江戸時代に奉納したもので、演劇史上、貴重な資料となっている。とのことでした。
今度は、近くに神社がありました。入って見ましょう。
これは、芭蕉の句碑ですね。
これは、新田義興公の十三塚というものだそうです。
矢口の渡しで戦死した新田義興主従の首実検が正平13年(1358)当地で行なれてより、災いが相次ぎ、正平16年新田大明神を当社に合祀しています。
これは、末社として祀られている蚕影神社という社だそうです。
治水碑です。入間川の近くで、過去には度々氾濫することもあったのでしょうね。
ところで、この愛宕神社(豊岡)は、入間市豊岡にある愛宕神社(豊岡)です。創建年代等は不詳ながら、武蔵野の開発と共に天照大神を祭祀したといいます。江戸期には幕府より社領8石の御朱印状を慶安2年(1649)に拝領、明治5年愛宕神社と改称し村社に列格、明治40年東愛宕神社を合祀(後に復祀)したといいます。愛宕神社(豊岡)所蔵の文化財:志茂町屋台(市指定有形民俗文化財)また、入間市景観五十選指定として、埼玉県ふるさとの森指定 首級の松(新田義興公首塚)十三塚(新田義興公従者十三騎の塚)勝海舟揮毫の扁額(愛宕山)芭蕉の句碑などがあります。
つづく