今度は、通りに面してこんな大きなビルのようなお寺に来ました。
浄土真宗のお寺ということですが、関東大震災後の築地区画整理により、敬覚寺、真龍寺とともに当地へ移転しています。宝林寺といい、創建年代は不詳ですが、僧林西(明暦年間没)が日本橋浜町に創建、明暦の大火(1657)に築地本願寺寺内へ移転したといいます。日本橋浜町で明暦3年(1657)正月18日の振袖火事により焼失し、八丁堀築地に移転した後、元禄8年(1695)12月26日火災により焼失、また天明4年(1784)12月26日焼失、明治5年2月26日焼失、大正12年9月1日関東大震災により焼失した。と何回も火災に遭遇して昭和3年現在地に移転し、昭和12年(1937)本堂完成、昭和44年に庫裡の増改築、境内整備、また昭和57年には、仏具修復を行い遷座50年法要を執行しています。平成12年には、現代的な建物に建て替えられ、翌年5月には落慶法要も執り行われました。本堂には、本尊阿弥陀如来を中心に、右側に親鸞上人、聖徳太子、左側に良如上人、七高僧の絵像が安置されています。また11月10日の報恩講には「大谷本願寺親鸞上人之縁起」が掲げられます。第9世住職羽田雲堂は能筆家、また第10世子雲は南画家として知られ「子雲画集」の著があり、父子一族合葬墓となっています。本堂の格天井には子雲の門弟の手になる花鳥図34点が描かれていて、この格天井は平成12年の建て替えの際、外陣から内陣に移されています。墓地には、明治、大正以降の墓石が多く、基礎に大和屋、近江屋、越後屋、鷲善等屋号を刻んであるのが目につきます。
ここから、ほんの少し行くともう一つのお寺である真龍寺へ来ました。こちらも浄土真宗のお寺で、白雲山と称します。文明年間(1467-87)、武州金杉に僧願浄が創建したと伝えられます。明暦3年(1657)全焼して築地本願寺寺中に移転、関東大震災後の築地区画整理により、宝林寺、敬覚寺とともに当地へ移転しています。谷原6丁目のバス通りに三軒寺というバス停がありますが、30メートルほど北へはいったところに、真龍寺、宝林寺、敬覚寺が隣り合わせてあり通称三軒寺といい、築地本願寺の地中(寺内)にあったものが、関東大震災後区画整理のため、三寺揃って谷原のここに土地を定め、昭和3年に新築移転してきました。
本堂は、大変新しいものですが、脇には歴史を感じる石柱が立っています。
屋根下には、こんな彫刻も施されています。ところで、この浄土真宗本願寺派寺院の真龍寺は、開基は願浄で織田氏の一族といわれています。文明年間(1467-87)、武州金杉に一寺を建立、明暦3年(1657)全焼して築地に移りました。築地本願寺の塔頭寺院は58を数え、真龍寺も宝林寺、敬覚寺とともにその名を連ねています。関東大震災の折、本尊や過去帳その他を築地の川に浮かべ、杭に繋いでおいたところ紐が焼けて流されたが、本尊は人に拾われて事なきを得ました。過去帳は水にぬれて用をなさなくなり、新に墓地の番号順に整理されています。ここには江戸時代の著名な儒学者、三縄桂林の墓石があります。「桂林文庫」「桂林遺稿」等の著書があり、文化5年(1808)歿年65でした。よく整備された墓地の中には、火を浴びて角が崩れたり、ひびがはいったりした墓石もあって震災の跡を残しています。平成12年、墓地の大改修を行いました。とのことでした。
つづく