「酒から教わった大切なこと」(東理夫 著)を読んでたら、序章でいきなり”マティーニ”の思い出が登場する。
マティーニという言葉で真っ先に思い出すのが、バブルの時代の生意気な日本である。成り上がり者がその成り上がりにすら気付かずに、上ばかりを見つめ追い求めてた時代。
私にも僅かながら、そういう時期があった。
”カクテルの王様”と称されるマティーニ(Martini)だが、ジン(スピリッツ)と薬草入りの強化ワインであるベルモットとの混合酒で、その比率によりドライとかスィートとも呼ぶ。
因みに、ベルモットが少なければ(9対1の割合)ドライ・マティーニとなる。しかしドライとは聞こえはいいが、単に苦いだけである。
マティーニと言えば、様々な映画や小説の中で度々登場するが、チャンドラーの翻訳者で有名な清水俊二さんは、”マルティニ”と上品にさり気なくお書きになる。
流石、東大卒の文学者は甘い香りがする優雅な書き方をするもんだ。
女優の桃井かおりさんは、芝居をしてる時はドライ・マティーニに限るというが、彼女には4対1の甘く優雅な”マルティニ”の方が似合いそうだ。
一方、作家の山口瞳さんの「行きつけの店」では”マチニー”と書き、マティーニとマルティニの中間にある、6対1の苦く甘いカクテルが心に響きそうだ。
こうしてみると、マティーニ派には失礼だが、お高く止まりたがる人種が呑むお酒みたいで、私には少し反発と嫌悪を覚える。
そういう私もこのマティーニには、それに含まれる苦いジンよりもずっと苦い思い出がある。
苦い思い出
私は福岡市天神の若者がごった返す、一番の繁華街である親不孝通りで、生まれて初めてカクテルというヤツを飲んだ。
予備校から抜け出したような風貌の私は、何と上下赤のジャージという成り立ちで、カクテルバーに入ってしまったのだ。
その時は、私をそういった所に連れ込んだ友人を恨んだが、いきなり恐ろしい程の違和感が私を包み込んだ。
友人に勧められるまま、ドライ・マティーニを注文した。カクテルなんてウィスキーみたいなもんだろうと高を括っていたのだ。
いきなり、ジンの品がなく容赦ない苦味が私の舌を麻痺させた。カクテルグラスにぽつんと浮いてる塩漬けのオリーブが、私を嘲け笑ってる様に思えた。
”田舎モンはこんな所に来るんじゃない”
しかし、その洒落た店はその雰囲気も周りの酔いも激しかった。洗練されてるには程遠かったが、イケイケのバーである事には変わりはなかった。
マティーニの苦味に圧倒された私は、何とあろう事に、いきなりトイレを間違えて入ってしまったのだ。勿論、トイレは男性と女性に分けられてあったのだが、私は女性トイレに入ってしまった。
何も気付かない私がトイレから出ると、トイレ待ちをしていた妖艶なドレスを羽織った若い女と目があった。というより目と瞳が遭遇したといった方が正確だろうか。
その瞬間”しまった”と思った。赤いジャージに続いて二度目の大失態である。
私はテーブルにつくと、恐る恐るそしてゆっくりと後ろを振り返った。
女は、私が間違えて用を足した(女性用)トイレを男性用と勘違いし、隣のトイレ(男性用)に入ったのだ。そして用を足し終えた女は、何食わぬ顔で男性用トイレから出てきたのだ。
その後がどうなったのかは言わずもがなである。女は皆、男性用トイレで用を足し、男は皆女性用トイレで用を足す様な、奇妙な光景がしばらく続いた。
私はそれを見ながら、笑いを必死で抑えながら、初体験のカクテルである苦いマティーニを飲み干した。もうその頃になると赤いジャージは全く気にならなかった。
マティーニを飲み干して
でも、私には非常に苦い初体験でもあった。
赤のジャージではなく、ごく普通の格好でそのバーに行ってたら、確実にあの妖艶なドレスを着た女を口説けた筈だ。
そう私はマティーニを呑みながら妄想に耽っていたのだ。
というのも、彼女は私を信じていたのだ。だからトイレを確認する事もなく、疑う事もなく男性トイレに入ったのだ。
美女が男性トイレから出てくれば、トイレ待ちをしてる男どもは女を疑う筈もない。女は”少し酔い過ぎたのかな”と思い、自らを疑ったのだ。
勿論、マティーニに踊らされた私の思い込みに過ぎないのだが、あの女は私に惚れてる様な気がした。マティーニにはそう思わせる程の毒性をはらんでる様な気がした。
2杯目をお代りしようとも思ったが、自分を見失いそうで躊躇してしまった。
そこで代りに頼んだのは、ごく普通のビールだったが、その時点で私の苦い初酔いは思い出と共に消え去った。
確かに、キンキンにに冷えたビールは美味しかった。でも、毒を孕んだマティーニに叶う筈もなかった。
”よく言うでしょ?マティーニは女性のオッパイと同じだって。1つじゃ少ないし、3つじゃ多すぎるでしょ?
貴方は2杯目のマティーニを呑むべきだったの。そして私を誘うべきだったのよ。せっかく騙されてあげたんだから”
そんな女の声が聞こえそうな閉店間際のカクテル・バーでもあった。
東理夫さんの「マティーニの話」には叶う筈もないが、お陰で思い出したくない昔の事を蘇らせてしまった。
しかし、たかがマティーニ1杯で苦いショートストーリーが書けるのだから、カクテルってその名の響き以上に、奥の深いスピリッツ(魂)なのかも知れない。
高校を卒業して初めて飲んだアルコールがあの苦いジンでした。
それ以来、アルコールには拒絶反応を示すようになり、しばらくはお酒を受け付けませんでした。
今では普通に何でも飲めるんですが、青春の思い出とは苦いもんですよね。
ドライマティーニの苦さには痺れました。当時は名前だけが独り歩きしてましたから。
以降、カクテル系は駄目で、唯一相性が良かったのがテキーラサンライズです。でも呑みすぎて結局は悪酔いしました。
今は日本酒に舞い戻ってますが、混ぜモン系はやはり毒ですね。
「ティファニーで朝食を」では、ベルモット抜きのマティーニをヘプバーンが注文しますが、向こうの女性は粋ですね。
刑務所から出所したマックイーンが恋人のアリマグローに語る言葉ですが。
”貴方何にする”
”とりあえず、ウィスキー”
これなんですよ。これを聞いた時から、私にとってアルコールはウィスキーで決まりですね。