象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

バルザックと旧訳と『幻滅』と唐揚げとハイボールと

2018年02月13日 18時56分00秒 | バルザック&ゾラ

 12月19日に書いた奴を、大幅に更新&補足します。

 久し振りにハイボールを呑む。やっぱり、酎ハイよかずっと旨い。当り前だが(笑)。丁度、バルザックの『幻滅』を読んでたら、スッカリほろ酔い気分になった。流行りの流行作家のライト系アルコール飲料の本より、ウォッカみたいな濃密な味わいの旧訳の方が酔える。酒も本も一緒なんですね。

 一気に、オンザロックで、グイッと呑み干すように、酔が回り、『幻滅』に陶酔し、悪酔いする(笑)。全く酒に酔い、本に酔う、そして、主人公のリュシアンに酔う、この私です。

 この『幻滅』はド長編大作だけあって、最初の最初から、バルザックの世界に陶酔してしまう。彼の作品は、往々にして前置きが、長く途中で頓挫する読者も多いだろうが。しかし、コイツは違う。確かに、評判だけの事はある。
 
 この『幻滅』は1837、39、43年に発表された3つのエピソードからなる3部作と言われてる。「二人の詩人」、「パリにおける田舎の偉人」「発明家の苦悩」の3つである。でも、とにかく、長い長過ぎる。
 それに、登場人物も百人を超えるかな。それでいて、間延びする事なく全てが濃厚で濃密だ。全てのフレーズが感慨深く思慮深い。長編になると思い切り間延びする傾向にある、Sキングもバルザックをお手本にして欲しいもんだ。全く、呑みながら読まないと、とても先へは進めない。

 「2人の詩人」はリュシアンとダヴィッド、「パリにおける田舎の偉人」はリュシアン、そして、下巻の「発明家の苦悩」はダヴィッドを中心とする物語だ。この二人の対照的な主人公のトタバタ劇でもある。
 それに、地方都市アングレームと首都パリ。野心と幻滅、清貧と虚飾、実直と偽善と多くの対称法が奏でる協奏曲であり、主人公が2人である事もユニークだ。

 日本では江戸後期、幕末近くの時代。チョンマゲ結って、チャンバラやってた頃である。この時代に、 新聞や出版界の内幕暴露に、ジャーナリズム批判という、極めて現代的なテーマを扱っている。全く、時代を先取りするバルザックの神憑りの洞察力には、只々驚かされるばかり。同じ人間でも国家でもこうも違うのか。当時のフランスは、怖ろしくおマセな国だったんですな。日本人を猿だと馬鹿にする気持ちも理解できる。どうせ私めはアホな猿ですよ(笑)。

 
 その上、彼らの周りを固める、二次的な登場人物として、ルストー、ダルテス、ピアンジョン、ド•マルセイ、ラスティニャック、ブロンデ、ヴォートラン等々、バルザックの「人間喜劇」群を大きく賑わした、一癖も二癖も三癖もある、オールスター群の共演でもある。

 ド•マルセイに、ラスチニャク、ブロンデも、お前ら全くのクズですな。何が若き青年の騎士だ、全く笑わせる。人の才能を盗むだけ盗んで。バルザックも、こういう出の悪い生意気なガキに、散々痛め付けられたろうね。"悪の帝王ヴォートラン"に比べれば、カスの中の滓だ。バルザックの作品にはこの二人が、しつこく登場する。ホントしつこく嫌な野郎です(笑)。

 パリの貴婦人も、華奢なサロンも、場末の腐敗した売春宿よりも、いや生ゴミよりも質が悪い。サロンというよりサリンで毒されたブタ箱同等だ。この奇怪な上流階級を生き抜いたバルザックの毒筆は、こういう所で鍛え上げられ、威力を発揮する。

 しかし、主人公のリュシアンは無垢すぎた。才気はあるんだけど、思考が狭すぎた。若き日の自分を見てる様で(そんな訳ないか)、何だか切なくなった。もう一人の負のバルザックか、それとも、彼が憧れた人物像か。虚ろい易く、陶酔し易い若者の悲劇を描く。

 同じく田舎の出で、貧乏なラスチニャクと比較されるが、性格の強い、ペテン系の押しの強い度胸の座ったラスチニャクとは対照的に。軍医で化学者で薬剤師でもある父と、貴族の出の母を両親に持つリュシアンは、繊細過ぎたし、虚ろい易い。DNA的にはバルザックよりも良いのに(笑)。


 それ以上に、二人の決定的な差は、悪の帝王ヴォートランとの出会いである。パリの苦学生の時に出逢い、実に絶妙なタイミングで影響を受けたラスチニャクに対し、リュシアンはタイミングが、出逢うのが遅過ぎた。パリのジャーナリストの、あらゆる腐敗と強欲の洗礼を受け、ボロボロにされた後では、流石のヴォートランも救いようがなかった。

 旧訳なんで、多少読み辛いが、その分のめり込んでしまう。昔の言葉というか、フレーズって独特の響き"毒特"の香りと毒牙の棘がある。年代物の銘酒と同じで、コクがあってキレがある。年代物の文学も全く同じ効果なんです。

 日付を変えたら、以前のコメント消えたみたいです。スミマセンです。



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