象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

『ファウンダー』マクドの創業者レイ•クロックに見る20世紀のビジネスモデル。その3〜クロックの不運続きの半生と、異常なまでの執着心と野心と独立心と〜(6/6更新)

2018年02月15日 12時46分32秒 | マクドナルド

 映画では、全くと言っていい程、マクドナルド兄弟に出会う以前の、レイクロックの半生には触れてません。

 ここで少し長くなりますが、不運続きの彼の生い立ちと前半戦を振り返ってみます。この苦難に満ちた苦渋の半生があってこそのレイクロックであり、マクドナルドの躍進の逆襲の全てなのです。
 時代を前後に、フェードイン&アウトする手法は、ハリウッドも得意とする所ですね。
  
 チェコ系ユダヤ人の両親の元に生まれたレイクロック少年は、勤勉な弟(後、医学部の教授に)とは違って、読書は好きになれなかったが、考える事は好きだった。いつも空想に耽る彼は"夢見るダニー"と揶揄された。
 仕事は大好きで、遊びの様なものだった。野球が好きでカブスとピアノがご贔屓だ。ピアノで生計を立てる事も夢見た。

 高校中退後、第一次大戦中、15歳で衛生隊に所属する。同じ隊にはウォルト・ディズニーがいた。終戦後17歳の彼は学業を放棄し、地元シカゴでは、リボン小物とピアニスト演奏、紙コップのセールスマイアミではジャズ演奏家やナイトクラブのバンド。憧れのニューヨークではボードマーカーなど、数多くの職を転々とした。しかし、景気と同じく、仕事も安定しなかった。

 が、ここでレイ青年は貴重な教訓を得る。マイアミのナイトクラブのメニューが、とてもシンプルで明瞭会計だったのだ。ここにて、マクドナルドの"愚直なほど簡潔に(`Keep it Simple)"の精神を生む。
 再びシカゴへ戻り、紙コップ(リリーチュリップ社=潰れそうな名前の予感ですね)の営業に没頭します。1927年から37年にかけ、運命的な急成長もあり、営業も順調だった。レイクロックはこの紙コップの営業に全てを賭けるのですが。

 当時、NYで出世の道を歩んでた父は、母親の説得もあり、シカゴに戻る。地元では不動産に没頭し、一財産を気付くも、1929年の恐慌の煽りを受け、一瞬にして文無しに。翌年父は他界する。レイが28歳の時です。

 禁酒法の影響で、時代はソーダ社会からアイスクリーム社会に変貌し、紙コップも行き詰まる。彼はテイクアウト用の紙コップを考案し、会社に大当たりをもたらすが。 
 トップセールスになり、主任に登り詰めた時、再び不況が彼を襲う。会社は否応なしに減給を強いた。"ふざけんな!利用するだけ利用しておいて"と、クロックは一時会社を辞めます。

 しかし妻や周りの説得もあり、会社に戻るが。この妥協が彼の人生を大きく狂わせるのです。妥協とギャンブルとドラッグほど人生を狂わせるものはない。
 不況下にも拘らず、商売は順調だったし、妻エセルの倹約精神とクロックの慎重主義が上手く融合し、貯金も確実に増え、メイドも雇った。"見た目も行動もスマートに”が口癖だった。

 アイスクリームやミルクシェークが大量に売れ始め、紙コップも大量に捌いた。後、クロックとマルチミキサーの共同経営者になるアールプリンスは、当時アイスクリーム業をしてた。
 クロックは彼にミルクシェークを勧めた。"アイスクリームより安上がり、収益も半端ない"と。彼は渋ったが、事実その通りになった。アールは500万杯のミルクシェークを売り、10万ドルを荒稼ぎした。

 お陰でアールは、マルチミキサーを発明し、サニタリーカップサービスと独占契約を結ぶ。クロックの才能を見抜いたアールは、彼を誘った。"利益は半々、俺が開発し、君が売りさばく"と。クロックが総支配人になるという好条件だ。

 元々会社には嫌気が指してたし、重役連中の不祥事が重なり(今でいうインサイダー取引)、35歳のレイは会社を辞め、マルチミキサーの独占販売者(1938)となる。

 "諦めずに頑張り通せば、夢は必ず叶う"が現実になりつつあった。彼はサニタリー社の60%出資で小さい事務所を建てた。名前はプリンスキャッスル、これまた名前からして潰れそうな予感(笑)。全くリリース、サニタリー、プリンスと名前がダメなんですな。全てはタイトルとイメージで決まるんですな。クロックがマクドナルドというネーミングを欲しがったのもよーく理解できますね。

 彼は2年程で60%を取り返そうと決意するが、前会社のリリー社が立ちはだかる。ここにても不運が彼を襲う。サニタリー社は元々マルチミキサーには興味がなく、全ての権利をリリー社に譲渡してた。最初から、彼らはクロックを騙すつもりだったのだ。

 "権利を寄越せってなら、6万8千ドルを払ってもらおう。全て現金だ"と、以前の上司は言った。妻に内緒で10万ドルの借金をした。
 クロックにとってこれが最初の大きな正念場だった。しかし、この長く気の遠くなる様な、辛い時期があったからこそ、今のマクドナルドの成功があるのです。

 一日4時間の睡眠が続いた。

 1941年、日本の真珠湾攻撃により、アメリカも全面戦争に突入。マルチミキサーもクロックもまた戦争の犠牲になる。モーターの軸に使われる銅が、戦時必需品として制限されたのだ。
 結局、戦時中は脱脂粉乳を16㌉の紙カップに入れ、売り歩いた。売る商品のないセールスほど惨めなものはない。

 しかし、戦後は誰もが目を見張るほどの好景気となる。フード業界では、ソフトクリームがフランチャイズ展開を広げていた。レイはこの成長マーケットにマルチミキサーを売り込んだ。年5千台は何度もクリアし、1949年は8千台を売り上げた。彼にはノルマなんて全く必要なかった。物さえあれば何でも売った

 それでも、妻のエセルは少しも手伝ってくれなかった。この年、親友のアルドーティーのアドヴァイスで経理秘書を雇った。これが大当たりした。彼女こそが、あのジューンマルチーノである。

 しかし、50年代に入ると仕事は頓挫する。でもアルは彼を励まし続けた"君には先見の明がある"と。しかし、親会社のリキッドカーボン社はソーダ部を撤去した。これまた名前が怪しすぎね(悲)。
 マルチミキサーは用無しになり、代りに折りたたみ式のダイニングセットを考案した。発想は良かったが、これまた社内に裏切りが出た。即座に部下を首にした。"ミスは何度でもやり直せるが、不正は一発アウトなのだ"

 そして運命のマクドナルド兄弟との出会いに繋がります。長々と失礼です。



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