9/19以来、約2ヶ月ぶりのマクドナルドブログです。前回の”その10”ではマクドナルド兄弟の終焉とマクドナルド帝国の新たな出発についてでした。この”その11”からはいよいよ後半戦です。レイ・クロックの本領が発揮されるシーンが数多く出てきます。
これまで盛んにクロックを扱き下ろしてきた私めも、正直彼を180度見直しました。クロックの洞察力はやはり超人的だったんです。苦労しただけの叩き上げではなかったんですな。反省反省。さてと本題に入りますかな。
《広告&宣伝活動》
クロックが無断で広告会社と手を組み、ソナボーンの怒りを買った事は前にも述べたが。そのクロックも販促(マーケティング)にはさほど熱心でもなかった。最初に販促主任となったドン・コンリーも他のポストで忙しく、マーケティングは疎かになってた。
今でこそ”マック=TVCF”というイメージだが、最初の10年間の広告活動はお粗末そのものだったんですね。
ジョン・ホーンが宣伝部長になった1963年に、初めてリーダーズダイジェスト1頁分の全国広告を出します。TVスポットを流し始めたのもこの頃で、殆どがローカル局に過ぎなかったんですが。
大手の広告代理店タンシー・アドバタイジングと契約したのが翌年で、1967年には販促部門を新設し、全国規模の広告活動に取り組みます。
そのクロックも、フランチャイジーに地元エリアでの宣伝&広告を奨励した。1959年以降は、売上の2.5%を販促に使うよう要求する。すぐさま4%に引き上げられ、ファストフード業界では一足先に、宣伝や広告の支出を義務付けた。つまり、”先見の明”というのが、クロックにはあったんですね。単なる叩き上げ型&脊椎反射型成り上がりじゃなかったんです。
前述した様に、1957年クロックは、シカゴの広告会社クーパー・コリン&バーンズと月僅か500ドルで契約した。当時のマクドではこの金額ですら莫大な出費で、流石のソナボーンもカンカンだったが、後々に大きな効果とTVCF革命をもたらす事になる。
このシカゴの小さな広告会社は、”マクドナルド=ハンバーガー”との印象を強く与える為、手口は非常に巧妙でもあったと。お陰で1961年にはタイム誌に載ったし、クロックの名はシカゴトリビューンの社交欄を賑わしたんです。
また、クーパーは記録と数字を上手く組み合わせ、マクドナルドを世界最大のハンバーガ業界に仕立てていく。
マクドが使用した小麦粉の量はグランキャニオンを埋め尽くすとか、ケチャップの量はミシガン湖の水量に匹敵するとか、今までに売り捌いたハンバーガーが月までの距離の何倍になるとか。
こうしてマクドナルドはハンバーガーの歴史を数字を創作する事で、広く世に知らしめたのである。
因みにハンバーガーとは、ロシアの水兵が牛肉の細切れを挟んだサンドイッチを、ドイツのハンブルグ市で流行らせたのが始まりだという。ホントかな。
《クロックのマスメディア戦略》
シカゴの広報会社のオーナーであるクーパー・ゴリンは、クロックの個性に惚れ込み、ジャーナリストにクロックを売り込んだ。同じ様にクーパーは、ピューリッツァー賞のハルボイルを何とか口説き落とし、クロックとのインタビューのお膳立てをする。
ボイルもまた、クロックの強い個性と甲高い声に惹かれた。AP通信も彼の声には終始耳を傾けたという。お陰で、クロックに関するコラムは全米の600を超える新聞に搭載され、マクドナルドは初めて全米中に知られる事となる。
つまり、クロックの強烈な個性と甲高い声がここに来て功を奏したと。
ボイルの記事はドミノ効果を生み、”TIME” ”LIFE” ”ミューズウィーク” ”WALLSTREET” ”フォーブス”といった名だたる有力紙も、クロックとのインタビューを求めた。
クロックの人柄と弁舌は、会う度に記者を魅了した。この事はクロック自伝には殆ど触れられてはいない。
私がクロックに興味を覚え、印象が180度変わったのは、映画”ファウンダー”ではなく、この”我が豊穣の人材”を読み始めてからだ。
映画ファウンダーでのクロックの評価は叩き上げの盗人扱いで、事実日本のサイトでも彼を良く言う人は殆どいない。
そういう私もクロックの事を、ファウンダーブログで、叩き上げの脊椎反射型執着動物みたいな事を書いた。今ここでハッキリと訂正です。悪しからずです。
《慈善事業》
慈善事業に至っては、クロックが自ら進めたと自伝にはあるが。これもクーパーが各フランチャイジーに地元新聞に慈善事業に協力するよう求めたと。
これは募金活動の記事にマクドの名前を搭載させ、地域との関係を深める方が、広告を出すよりもずっと経済的であったからだ。
この慈善活動への参加は単に安上りの宣伝だけでなく、外食産業の品位を向上させ、地元との密な関係がイメージアップに直結した。
この慈善活動の動機は極めて不純で利己的ではあったが、やがて草の根的に発展し、フランチャイジーはその慈善を通じ、独自の販売法を考え出す。
つまり、クーパーは慈善活動も広告活動を含む販売促進の一つと考えたんです。全く恐れ入りますな。クロックもそうですが、彼を取り巻く人材も半端じゃない。
こうやって一度フランチャイジーが地域との深い連帯を持つと、勢いは止まる筈もない。地元への慈善活動に参加する事は1つの定例行事となった。今日マクドナルドの慈善募金は年間5000万ドルを超え、勿論これはアメリカでも最大の額と。
結局、”おらが村のマクドナルド”という地域活動とイメージは、マクドの最も強力な武器となり、と同時に個々のフランチャイジーの努力の賜物でもあるんですね。感心感心。
《マーケティング革命》
ブログでも述べた様に、初期の投資型フランチャイジーに失望したクロックは、1950年後半に起業家型にシフトし、新規を募った。
これは営業面だけでなくマーケティング面でも革命をもたらした。起業家精神のフランチャイジー(店主)が全チェーンのマーケティングに有利なアイデアを次から次へと生み出したのだ。
地方の方が本社よりもずっと賢い販促を実行してるのかを、クロックは見抜いてた。まさしく、”現場ファースト”のクロックの信念と洞察には頭が下がりますね。
これは、大半の店主が素人であるが故に、”口コミ”という業界の伝統に縛られなかった事にある。慢性的に雁字搦めになりつつあるチェーン組織の中で、マーケティングこそが唯一個の創造性を発揮できる場であると、クロックは見抜いてたのだ。
故にクロックは、フランチャイジーのマーケティングの自由と逸脱を平気で黙認した。
こんな中最も傑出したのが、ジム・ジーンです。劇場を7つ持つ彼は、1958年ミネアポリスに店を開いた。
彼は本社からの新聞広告に頼らず、地元広告代理店に依頼し、当時主流だった新聞広告を止め、何とラジオでCMソングを流したのだ。これが大ヒットし、売上はマクド全店でトップに立った。
ジーンはこのCMソングを殆ど無償で全チェーン店に配った。
”フランチャイズは一つ、一人の販促アイデアは全フランチャイジーのもの”、というマクドの戦略の基本原則がここにて確立されたのだ。
その上、彼はラジオのスポットCMから、TVCMへと展開する。”チビの心を掴めば、親もうちの店に来る”。ジーンはTVこそが子供の心をつかむ広告媒体だと見抜いてた。その上、子供向けのTVCMは制作費も安い。
そこで彼は、広告費を全て子供向けの番組のCMに費やした。60年代になると、10以上のフランチャイジーが地元TV局の子供番組の有力なスポンサーとなる。
まここまでくれば、あとはドナルドダッグの登場ですかな。
月々僅か500ドルの広告費が、ここまで大きく発展し、マクドナルドを全米中にいや全世界中に知らしめる結果になったんです。当のクロックもここまでは予測できなかった事でしょう。
マクドナルドの場合、打つ手打つ手が全てピタリとはまった結果でもあるような気もしますが。特に、フランチャイジーの創意工夫にも恵まれたんですね。
マクドナルド兄弟との長い確執から逃れ、マクドナルドは大きく羽ばたいた当然かな。
久し振りのマクドナルドブログ、興味深く読めました。
久しぶりのマクドナルドブログへようこそです。
マクドナルドの成功の秘訣ですが。ありとあらゆる創意工夫の賜物であるかが、伺いしれます。
それに、外部業者やフランチャイジーや現場の人達にも非常に恵まれた結果ですね。
それに対し、今の労働環境は派遣制度を製造業に認めたが故に、昔の奴隷制度に舞い戻った感じがします。
今の時代にこの様なマクドナルドのビジネスモデルを実現するのは、不可能な様な気もします。
この販促と広告こそが20世紀のビジネスモデルかもしれません。
勿論、豊穣の人材とフランチャイジーの創意工夫もマクドナルドの大きな成功のカギなんですが。
現場ファーストを掲げ、タテ構造ではなくヨコ構造にしたことで、創意や発想のヨコ広がりを促した結果だと思います。
このファウンダーブログには、ありとあらゆる成功の秘訣が隠されてる様な気がします。
いつの時代も横広がりの創意溢れる工夫ってものは、大切な事ですね。
マクドナルドの成功が、横広がりのフランチャイズ構造にあるのも非常にユニークに映ります。
フランチャイジー一人一人が、独自の起業家精神を持つ事で、天文学的成功を収めたと事こそが、20世紀の理想のビジネスモデルだったんですかね。