誤解なく言っておきたいが、一部には”ギブソンの精神力ではメジャーに耐えられなかっただろう”との声もあるが、これは誤りであると断言出来る(多分)。
以下でも述べるが、高校生でズブの素人がジョー・ウィリアムスの豪速球を受けるという事がどれだけ危険で怖い事か?プロの捕手でも嫌がっただろう。
若くして妻を亡くし、その落ち込んでた時に好きになった女が薬の売人の妻だったという不運。故に、”波乱の人生”ともよく言われるが、ギブソンの場合、”不運な人生”と言い直すべきかもしれない。
黒人リーグの栄光と衰退
当時のニグロリーグには、メジャーに行ったとしても軽く20勝以上できる投手や、3割5分以上打てるバッターたちがゴロゴロいた。
そのハイレベルなニグロリーグで本塁打を量産したジョッシュギブソンは、地元のピッツバーグ・クローフォーズに若干16歳で入団する。
身長188cm、体重90kgとムキムキの超人的な筋肉質の大型捕手で、今の時代なら、2Mで110kgほどになるんでしょうか。
その驚異の長打力は、ピッツバーグの球場で打った特大ホームランが”翌日フィラデルフィアの球場に落ちてきた”という伝説を残し、他にも推定180m以上のの特大本塁打をカッ飛ばすなど、数々の伝説を残した。
通算でも王貞治の868本をも超える972本塁打を放ったというジョシュ・ギブソンとは、どのような選手だったのか・・・
以下、「ニグロリーグ最高の打者」を一部参考に主観を交えて紹介します。
ニグロリーグ(黒人リーグ)は1900年頃から始まり、約半世紀存在した。
ジャッキー・ロビンソンが黒人大リーガー第1号としてドジャースに入団した1948年以降、有力選手が次々にメジャーに入団し、ニグロリーグはフェードアウトしていく。
因みに、ニグロリーグ出身の最後のスターこそが、755本塁打のハンク・アーロンである。
”ニグロ”という差別的に聞こえる言葉だが、1900年代初頭、黒人たちは好んで使ってたらしく、むしろ誇りをもって自ら”ニグロリーグ”と名付けた。
実際、彼らは強かった。
白人の大リーグと黒人リーグの間では、1900年〜1950年の間に436試合のエキジビションが行われ、結果は黒人側の268勝168敗。勝率にして6割1分5厘、5回試合をすれば3回強は勝ってた事になる。特に、サチェル・ペイジとこのギブソンが出場した試合はほぼ負けなかったとされる。
オフとはいえ、当時では結構な興行になったとされ、白人側は本気を出していた筈だ。それなのにこの歴然たる勝敗差は如何にニグロリーグのレベルが高かったかを示している。
しかし、観客数・注目度・選手の待遇など、実力以外の全ては逆に雲泥の差であった。
旅から旅で、1日2試合や3試合は当り前。非公式戦も入れると年間200試合ぐらい行っていた。サーカス的な巡業で見世物的要素も強く、地方では唯一の貴重な娯楽でもあったろう。
故に、正式な記録は残っていない。
ギブソンが打ったホームランを”市長が巻尺を取り出して飛距離を計った”などの口承伝説の世界である。1934年の170試合で84発というのもいい加減なもので、”数えられるだけで84本”と、実際にはもっと多くを打ってるとさえも言われている。
黒いベーブ・ルース
1920年代にホームランを打ちまくったルースと入れ替わる様に、30年代から40年代にかけてはギブソンの時代だった。
時代が近かった事もあり、ジョシュ・ギブソンは”黒いベーブ・ルース”の異名があったが、それどころかベーブ・ルースの事を”白いジョシュ・ギブソン”とも呼ばれた。
事実、晩年のルースが若きギブソンの破壊力あるシャープで確実でかつ高度な打撃を見て、表情が青ざめたとの話もある。
確かに、それを裏付ける逸話は数多く残されている。
小学校卒業後に父親が鉄工所の職を得た事を機に、ピッツバーグへ移り住む。電気技師になるつもりだったが学校を中退し、ブレーキの製造工場で働く傍らで、1927年頃から野球を始めたとされる。
1930年、ギブソンは18歳で地元ピッツバーグを離れ、ホームステッド・グレイズに正式に入団するが、デビューの仕方がすでに怪物だった。
前年度のリーグチャンピオンのカンザスシティ・モナクスを迎えてのゲーム。グレイズはエースの”スモーキー=”ジョー・ウィリアムスが先発。
しかし、ウィリアムスの豪速球に捕手が親指を痛めてしまう。捕手がいなければ試合が出来ない。そこで監督は偶々観戦に来てたギブソン青年に目をつけ、彼を観客席から呼び出しマスクを被せ、そのまま入団させてしまった。
因みに、193cmの長身から繰り出されるウィリアムスの豪速球は”サイクロン”とも恐れられ、サチェル・ペイジ以前のニグロリーグにおいて、最も偉大な投手とされる。
既に40近くになってたが、彼の速球をまともに捕球できる選手がいなかったとも言われる。故に、ギブソンも最初はその捕球に相当に苦労したらしい。
柔らかくて強い足腰に、丸太ん棒のような腕と厚い胸。安定したスクエアな姿勢から放たれる打球の速さといったら、驚異そのものであったという。
それに加え、ゴムみたいに柔らかな筋肉は打つ方だけでなく守る方でも如何なく発揮された。何と、彼の指は手の甲にくっつく程に柔らかで、座ったままのスナップスローで二塁に送球できた。それも綺麗なスピンが掛かってるのでとても捕り易かったという。
当時の捕手には保護具などはなく、選手のタックルやスライディングは全て膝で受け止めていた。が故に、ギブソンの膝はスパイクの跡だらけだったという。しかし、そのお陰で徴兵を免れる事が出来た。
現役17年間で972本塁打。生涯打率は3割7分3厘説と3割9分1厘説がある。
そこで、ギブソンの豪打伝説をいくつか列挙する。
まずは、グレイズのチームメート、B・レナードの証言。
”ジョシュほど遠くに打球を飛ばせるバッターは見た事なかったね。ある晩、ポログラウンド(NYジャイアンツの本拠地で右中間と左中間は137M中堅は145M)で放った打球は場外に消えていった。
夜警が来て聞いたもんだ。‹誰があんなドデカイのを打ったんだ?ボールが落ちたのは駅のホームで、180メートルはあるぞ›ってね”
一方で、ヤンキースタジアムでは史上唯一の場外弾を放つ。
当時のヤンキースタジアムは壮大な3階建てで、左翼スタンドは右翼よりはるかに広く、3階を越えた者は1923年の建造以来、誰もいなかった。が、ギブソンの打球は左翼場外に消えた。以降、ミッキー・マントルが1950年代に僅かに屋根に当てた事があっただけだ。
因みに推定飛距離は176Mとされ、正式な記録として認められている。
また、グリフィス・スタジアム(ワシントン・セネタース)は左翼が123Mもある為、1946年のセネタースの選手全員の本塁打数が13本に対し、ギブソンはここで27本を放ったという。
ギブソンの絶頂と破滅
プロ2年目の31年にはシーズン75本塁打。32年には、佐山和夫さんが全ての野球を通じて史上最強のチームだったと断言するピッツバーグ・クロフォーズに移籍。
ここで史上最高の投手サチュル・ペイジとバッテリーを組む。彼に関しては「180Kの快速球」も参照です。
ペイジと黄金のバッテリーを組んでた頃が、ギブソンも全盛期だった。34年のこの年こそが”年間84本塁打”の年である。
巡業先でもギブソンとペイジは、大リーグの白い肌のスター選手よりもずっと人気者だった。(女性も含め)目の超えたファンたちは、野球では”黒人が白人よりも上”という事を知ってたのだ。
試合後には、若いギブソンの周りに大勢の女性が集まるので、彼は”俺はもう十分だ。彼らにも声をかけてよ”と、うなだれる白人選手を気遣ったという。
ある試合後には、ギブソンがメジャーの4番打者に”なぜ力任せにブリブリ振り回すんだ。当てれば飛ぶだろ”とアドバイスすると、その4番打者は”お前みたいな破壊力があれば苦労はしないさ”と苦笑したという。
またある日は、メジャーの選手が(乱闘に見せかけ)ギブソンを数人掛かりでフルボコにしようと試みたが、逆に手提げみたいに簡単に投げ返されたという。
つまり、球場の外でもギブソンは規格外だったのである。
ギブソンの実際の評価としては、MLBの野球殿堂を果たしたロイ・キャンパネラは”攻走守どれを取っても私より上回っていた。飛ばす事ではベーブ・ルース以上、確実性でもあのテッド・ウィリアムズ以上”と言い切っている。
その後、毎年の様にホームラン王。メキシコやプエルトリコでのプレーを経て42年、ホームステッド・グレイズに復帰する。
しかし、アイスクリームだけが大好物だった規格外の怪物ギブソンも、(最愛の妻を失った事もあり)30を過ぎた辺りから薬と酒に溺れる様になり、偏頭痛やめまいに悩まされる。
43年には脳腫瘍が発見されたが、ギブソンは手術を拒み、現役を続けた。だがこの年は、本塁打王と.521の高打率でニグロリーグ2度目の首位打者も獲得する。
44年も当然のように本塁打王に輝くが、翌45年には太りすぎて体調を崩し、47年1月に35歳という若さで死去する。
死因は脳出血。ジャッキー・ロビンソンが黒人として初めて大リーグに入るのを聞いた3カ月後だった。
ギブソンには、”自分がニグロリーグ最高の打者だ”という自他共に認める自負があり、黒人最初のメジャーリーガーになるのも自分だと思っていた。しかし、ドジャースが指名したのはカンザスシティ・モナクスの控えの2塁手だった痩せっぽちな若者だった。
事実、彼みたいなレベルの選手はニグロリーグには腐る程いた。ギブソンが悔やむのも当然ではある。
身体に似合わず繊細だったギブソンは、酷く落ち込み毎晩の様に痛飲した。
”ペイジから180Mの大アーチを放った奴は何処の誰だ”と、酷く荒れまくったという。
因みに、ロビンソンがドジャースと契約した時、ギブソンは33歳8か月、ペイジは39歳1か月であった。
1972年に、ニグロリーグ特別委員会の投票により、サチェル・ペイジに続き、ニグロリーグ出身者では史上3人目の野球殿堂入りを果たす。
ニグロリーグ、いや地球上で最高の打者がこの世を去るのを待ってたかの様に、白人野球の中で力をつけた若者がメジャーを代表する野手になっていく。
それはニグロリーグの衰退を示すと共に、アメリカ社会の1つの大きな節目であったのではないだろうか。
最後に
「大リーグを超えた草野球」
「黒人野球のヒーローたち」
「知られざる”黒人大リーグ”の興亡」
「黒き優しきジャイアンツ」
いずれも佐山和夫氏の著書だが、歴史書としても十二分に楽しめる。
野球好きなら、ぜひ読んでほしいオススメの本でもある。
典型のローボールヒッターで
日本デビューのときには
千葉マリンスタジアムの場外へ軽く放ってました。
WBCでもアメリカ戦で豪快なアーチを放ってました。
彼がアメリカを打ち砕いたお陰で日本は運良く世界一になれましたが、当時の王監督も李承燁の豪打には目を見張った事でしょうか。
ギブソンと李承燁のアーチの祭典も見たかったです。
いっその事、日本でもアジアの強打者たちを集め、ホームランダービーを開催するのもアリですよね。
かなり飛んだだろう
全身ハガネみたいな肉体だもの
でも時代は彼には残酷過ぎた
どんなに卓越した才能を持ってしても
運に見放されたら
それで終わる
ジョッシュギブソンに
永遠の栄光あれ
松井選手に準ずる程の数字は残したんではないでしょうか。
確かに巨人での4年間は満足行く数字ではなかったんですが、長距離砲としてみれば凄い次元にありました。
大谷と比較しても遜色ないどころか、力みのないシャープな打撃は、ギブソンの”エコノミー”と称されたスィングと似てるんでしょうか。
メジャーでの彼らの活躍をぜひ見たかったですね。
ニグロリーグには優秀な選手が数多くいたんですが、みな過酷な環境に晒され、大半が短命で、記録にも言い伝えにも彼らのプレーぶりは残っていませんでした。
ボンズのステロイドは、明らかに白人社会への復讐でしたよね。
黒人リーグに栄光あれ