日経平均株価が史上最高値を更新したニュースは記憶に新しいが、”実感が殆ど伴わない”との声も多く聞かれる。
私もその1人だが、日本は裕福な国なのか?本当は貧乏なアジアの1国に過ぎないのか?そこら辺も不透明である。
一方で、2023年の”名目”GDPがドイツに抜かれ、世界4位に転落した日本だが、元々GDP(国内総生産)とは、その国で生み出されたモノやサービスの付加価値額の総計である。一方で名目GDPとは、その時点の市場価格で計測され、価格や物価の変動による影響をもろに受けるとされる。
戦後の高度成長を果たし、GDPがアメリカに次ぐ第2位だった頃は、多くの日本人が自国を経済大国として自覚・自慢していた様に思う。
今では、2010年に既に中国にも抜かれ、25年にはインドにも抜かれるという。確かに、GDPの規模を考えると日本は2位中国の1/4程で、更に人口比を考えると中国やインドに抜かれるのは必然かもだ。
勿論、ドイツが日本を抜いたのは円高と国内の物価上昇による所が大きいとされるが、日本の2/3の人口のドイツに抜かれた事実は深刻な問題で、お世辞にも”経済大国”とは言えなくなった。
経済大国な筈の日本は、なぜ貧乏なのか?
勿論、GDPだけで金持ちか?貧乏か?の判断はできないが、そんな時に(前出の)名目GDPから物価の影響を取り除いた”実質”GDPが使われる。
つまり”名目GDP”とは、ある時点の経済規模を把握するのに対し、”実質GDP”は各時点間の経済成長の度合いをみる指標と言える。実際、2023年の日本とドイツの実GDPの成長率をみると、日本は前年比2.0%増でドイツは同0.5%減と、名目GDPとは異なる結果になる。
但し、経済規模を国際比較する場合、ドル換算の名目GDPではなく、”購買力平価(PPP)換算のGDP”が適してるとの見解もある。例えば、日本で200円の商品がアメリカで2ドルなら、1ドル=100円がPPP換算GDPとなる。
つまり、PPP換算GDPは、ドルではなく物価を重視した、我ら庶民に判り易い”体感的豊かさ”の指標と言える。
以下、「経済に強くなる”数字”の読み方」より大まかに纏めます。
仮に、PPP換算(2023年)ではドイツは5兆5380億ドル(4兆4298億ドル)で、日本は6兆4952億ドル(4兆2309億ドル)と日本が上回る。更には、中国が32兆9,313億ドル(17兆8863億ドル)で1位、アメリカが27兆3,578億ドル(25兆4627億ドル)で2位に入れ替わり、インドが13兆3,424億ドル(3,736,882)で3位となり、以下、日本(4位)とドイツ(5位)が続く。但し、括弧内は2023年の名目GDP。
つまり、日本経済はまだまだ捨てたもんじゃないとなるし、庶民の感覚で言えば”中国はアメリカよりも裕福なのかぁ”とも受け取れる。
事実、これは当ってる様に思えるし、犯罪者を大統領に選ばざるを得ない程に目の前の経済や景気に縋るアメリカの致命的欠陥とも言える。
では、日本はそこそこの金持ちなのか?
そこで、国民の生活水準を表わす”1人当たりのGDP”の順位をみると、日本の1人当たりドル建て名目GDP(2022)は世界32位の3万3854ドルだが、2023年は3万3950ドルで34位に下落すると予測されている。また、PPP換算でも22年と23年はいずれも36位で、生活水準は高いとは言えない。
つまり、経済力の総和はそこそこだが、庶民の暮らしはそれに見合ってはいない。
世界ランク(2023)を見ると、1位はルクセンブルク、2位アイルランド、3位のスイスが続く。これら上位にランクインする国の共通点に、人口が少ない事が挙げられるが、それは労働人口に占める越境労働者の割合が大きく、多くの付加価値を生み出してる割に人口が少ないが為に、1人当りGDPが大きくなる傾向にあるからだろう。
一方で、名目GDPが世界2位(PPP換算で世界1位)の中国の1人当たりGDPは75位。つまり、日本よりもずっと安い賃金で多くの国民が奴隷みたいに働いてる事になる。
しかし、1人当たりGDPが上位の国の中には、人口が少ない国でも有力な金融機関が集積し、競争力が高く、IT導入などの効率化による生産性の高い国もある。加えて、人口が日本の2倍以上あるアメリカの1人当たりGDPは世界7位(総GDPは日本の6倍以上)である事を考えると、人口の多さ以外に生産性の問題なども根本的な要因になるのかもしれない。
以上、帝国データバンクの資料を参考に一部抜粋して説明しましたが、この本では比較・変化(流れ)・大きさ・統計・探索・錯覚・意外性・危険信号などといった複数の観点から数字を眺めている。
確かに、経済に関わる数字や統計にはそれぞれに”クセ”があり、これら偏りを理解する事で数字や統計の適切な解釈やり回が可能になる事が理解できる。
数字と統計を正しく理解する為に
また本書では、例えば2019年に”老後2000万円不足”問題が大きな話題となったが、基礎となる統計データについて3年後のデータで再計算すると”老後55万円不足”問題へと変わった。つまり、データの誤った解釈により”2000万円”との数字が一人歩きする事態を招いたのだ。
こうした”クセ”(偏り)を理解するだけで、結果に一喜一憂せず、自身の視点で情報を正確に解釈する能力が身につく。1つの数字から時代の流れを読み取り、また別の数字からビジネスのヒントを掴み取っていく。
昨今の不確実性の時代において、数字いや数学が存在する意味は今まで以上に重要性を増す。この様な時代に安定した指針となるのは数字を読み解き、数学を理解する力である。
話を元に戻すが、巷でよく言われる”GDPとは日本が儲けたお金である”とは単純には言えないものがある。
そこでGDPの内訳だが、まずGDPの大半を占めるのが、(外国人を含めた)日本国内での”消費”と国内企業の”投資”の合計金額である。これに、政府支出と貿易収入を合計した金額がGDPとなる。つまり、政府が資金を無駄にバラ巻けば、GDPは単純に増加するから、どんぶり勘定的指標とも言える。
”GDPが日本国民の儲けではない”のは、GDPには在日外国人による消費が含まれ、逆に外国に行った日本人の消費は含まれていないからだ。
そこで、(国内外にいる)日本人の儲けを正確に把握する指標がGNI(国民総所得)である。
一方で、以前は日本人が生み出した付加価値の総額であるGNP(国民総生産)という指標が使われてたが、在日外国人や国外で稼ぐ日本人が増えた事で、GNIが日本人の儲けの精度の高い指標として使われる様になる。
だが基本は、”消費+投資+政府支出+貿易収入”の単純な総和に過ぎないし、生産が所得に変わっただけで、GDPとGNIの間に本質的な違いはない事は明らかだ。
では、なぜGNIとGNPを同じ様に扱えるのか?それは生産されたものが過不足なく行き渡ってる時は、所得の合計額と生産の合計額が一致するからだ。更に、この前提でモノやサービスの付加価値の合計額であるGDPもGNIやGNPと一致する(三面等価の法則)。
例えば、政府が無駄にお金をバラ撒いたり、生産したものが無駄に余ったり、国内が生み出した価値が国民に行き渡らなければ、全ての経済指標にはロスや誤差が生じ、GDPの数値は高くても、日本は国民総貧乏(GNP=GrossNationalPoor)という事になる。
GDPに代わる新たなる指標
そこで、SNA(国民経済計算)では、生産・消費・投資のフロー(取引による利益・分配・支出)だけでなく、資産や負債のストック(残高・在庫)も体系的に記録する国際的な新基準である。
以下、「国のデータの基礎”SNA”〜科学を俯瞰する”前提”とは?」より一部抜粋です。
GDPやGNIとは異なり、SNAは経済全体の動きを捉える為の広範な指標として用いられ、GDPやGNIはSNAの中の一部として位置づけられてるのが特徴である。
つまり、SNAは様々な統計データの基礎になりうる、極めて重要な指標となる。ざっくり言えば”経済活動の全てを1つにまとめる”事を目的とする。が困った事に、GDPはSNAの一部の”内数”に過ぎず、SNAの様に産業別の付加や価値、或いは社会資本を含むストック面の金額を表さない。
経済活動の殆どは”ストック”で行われてるが、マクロな経済状況を正しく理解する上では、表面的な実数であるGDPだけだと不十分だ。一方、SNAも非常に細かなデータを追いかけて作成する必要がある。
更に、SNAは作成して公開まで約2年かかるので、フローの観測には不向きで実務ではなかなか使えない。故に、SNAはストック面(国ごとの社会資本の形成の比較や産業政策・税徴収)の指標に用いられる事が多くなる。
また、ミクロレベルまで産業の取引(ビッグデータ)を分解する所がSNAの面白い所で、産業を187分類に区分し、外部の公的資金も加えたマトリクス図にまとめ、更にGDPの速報値とも調整し算出する。
これらは、あくまでデータという無形資産を(フロー側でなく)社会資本というストック側にもっていく。通常、データを使ったビジネスではフロー側に傾くが、社会資本としてデータを固定資産とし、どの様に価値を置くかとの観点で数値化する事に意義がある。
それに今、注目すべきは”科学と社会の科学自身の変遷”というパラグラフで、科学に対する社会の受け止め方は時代によって変化する事を意味する。つまり、その観点がなければ、科学を俯瞰的に観測するのは不可能となる。
判り易く言えば、錬金術師が錬金術師でありえたのは”その時代だったからこそ”という事になる。
以上、「データのじかん」からでした。
つまり、時代を無視しては科学も統計もデータもアテにはならないという事だろう。
確かに、時代の流れ(フロー)から見れば、国家の経済的豊かさの指標は、グローバル化が大きく進んだが故に、従来の”国民”の生産活動を基準としたGNP(国民総生産)から、”国内”の生産活動を基準としたGDP(国内総生産)が広く使われる様になった。
一方で、”国民の総所得”を基準としたGNI(国内総所得)が新たな統計として登場し、GDPと並行して用いられてる。これは、1993年に国連がGNPからGNIへと統計の基準を"生産"から"所得"へと変更した事による。
つまり、”どれだけ生産したか”よりも”どれだけ所得を得たか”の方が(当然の事だが)個人の経済的な豊かさを捉え易い。
一方、同じ1993年に国連が制定し、新たな国際基準の経済指標であるSNA(System of National Accounts=国民経済計算)が登場した。
前述した様に、SNAとはフロー面(生産・消費・投資)やストック面(資産・負債)を体系的に計算し記録する、国家経済の会計原則的な指標である。平たく言えば、生産と所得の分配状況や所得の受取り元や消費先などを知る体系表とも言える。
最後に
こうして、経済というものを単なるデータではなく、計算された指標という物差しで捉えれば、その計算に使う数理モデルが複雑で精度の高いものほど有効に働く事になる。
我ら日本人は、生産ストックの指標のみを弾き出すGNPの高い数値に胡座を掻き、長らく経済大国だと信じ切っていた。勿論、GDPに変わってもその傾向は殆ど変わらなかった。
確かに、N(国内)とD(国民)の違いだけかもしれないが、日本人労働者も”外国で働かないと飯が食えない”という貧しい時代が今の日本である事を物語る。
更に、GDPがGNIに代わり、P(生産)がI(所得)に変わった所で、国が貧しければ所得も生産も意味を成さないし、庶民が貧しければ、独裁国家の奴隷と同じである。
”インフレにして所得引き上げれば”との声も多いが、国が貧しければ、戦時のドイツみたいにハイパーなインフレを招くだけだ。
この様にデータだけでは、国家の豊かさは測れないし、数字を足し合わせた統計だけでは、指標とは言えない。
数学の世界には、次数(次元の数)や位数(集合内の元の数)や指数(べき乗数)や種数(閉多面体での貫通穴の数)がある様に、其々の指標(物差し=基準)にも様々な意味と定義が複雑に混在する。
最も単純な足し算の視点で言えば、GNIは日本人の儲けを表し、日本人の海外所得と外国人の日本国内所得の差は”所得収支”に相当するので、”GNI=GDP+所得収支”とのシンプルな計算式が成り立つ。
つまり、日本人の国内外での所得の総和がGNIとなる訳だが、昔から蟻みたいにせっせと重労働を強いる日本のGNIが高くなる傾向にあるのは当然で、それを国民や国家の豊かさと言えるのだろうか。
従って、”所得=豊かさ”という”貧しさがもたらす指標”が未だに蔓延ってしまう。
故に、メディアも専門家も国家の豊かさを語る際には、様々な指標を扱い、時代の流れに合わせ、統計により弾き出された数字を注意深く考察する必要がある。
前出の「経済に強くなる数字」にも書かれてるが、数字を読み解き、数学を理解する力が必要なのは、国民の豊かさを正確に把握するに不可欠なものとなる。
言い換えれば、国民一人一人が賢くなる事も豊かさの大きな指標と言えるのかもしれない。
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