本当の苦労話というものは、他人に吐露すべきものでもない。
とも思うが、時として神憑りな喜奇劇のドラマに昇華する事がある。
ブログや記事にして、同情や共感や賛同を得たいという気持ちも解らなくはないが、同じ様な経験をした人じゃないと等身大には伝わらない。最悪、”苦しいのはアンタだけじゃない”ってなる。
いつもは温厚なジャイアント馬場さんがかつて激怒した様に、”昔の嫌な事を言う奴は好かん”となる。
そういう私も他人の苦労話は好きだが、自分の苦労話はどうも好きになれない。結局、人間は自分勝手な生き物だ。
因みに、同情は上から視線、共感は対等視線とされるが、苦労も見方を変えれば、只々苦々しいだけの様に思える時がある。
そんな共感も同情も必要ない。野球と友情さえあれば全ては乗り越えられると、この「2つのホームベース〜白球が語る日系二世戦争秘話」(佐山和夫著)から多くを学んだ。
2人の日本人
かつてアメリカの強制収容所にいた日系人たちが戦後の同窓会で出会った時、皆が皆言葉なくすすり泣いた。
勿論そこには、感動も同情も共感もなかった。あるのは、津波の様に押し寄せる悲しさと無念と憤りの塊だけである。
”グラウンドの中央に男が立ってるのが見えた。男はサンタマリア・ハイスクールの赤い野球帽を被っていた。
入山正夫はその男の方に、53年の時間を掛けてゆっくりと歩いていった”
「2つのホームベース」では、同じ日系2世で一方はアメリカ軍に志願し、一方は強制収容所に入れられた2人が、53年ぶりに出会う。
2人は若い頃、野球で二遊間を守った大の仲良しだったし、選手としてのレベルも相当なものだった。しかし、2人と大好きな野球をやめ、差別と迫害と戦いながら、それぞれの道を歩んだ。
人生はコインに例えられる。勿論、2人の人生もコインの表裏の様な関係にあった。
当然の如く、前者の方が比較的優雅で豊かな人生を歩み、後者は苦難に満ちた地獄を味わう。
結果的に、2人の人生はかけ離れたものになった。しかし、どちらの人生が正解で、もう一方が不正解というのではない。自らの信念に忠実に生きる事が良い人生なら、どちらも良い人生である。
ハイスクールで別れて以来、53年ぶりの再会にも関わらず、戦争が2人の人生を切り裂いたにも関わらず、2人が昔馴染んだグラウンドで出会った時には、涙も感動もなかった。
2人とも笑顔で挨拶しただけで、昔と同じく、当り前の様にキャッチボールをする。
”まだまだ投げられるんだ。嬉しかったよ”
”肩が軽くて、もっと速い球が投げられるかと思ったよ”
2人の言葉は、やはり同じだった。
実は、キャピー原田氏と入山正夫氏が同じサンタマリア・ハイスクール野球部のチームメイトである事を著者の佐山和夫氏が知ったのは、全くの偶然によるものだった。
それ以上に佐山氏を驚かせたのが、取材中にお互いから全く同じ言葉を聞いたからだ。
2人とも即座に、”一度会いたいな。ハイスクールで別れて以来、ずっと会ってないから”と言ったのだ。
レビュー
”運命の日、一人はアメリカ軍に志願し、一人は強制収容所に送られた。セカンドベースを軸にして二人はカリフォルニアでは<黄金のキーストンコンビ>と讃えられていた。しかし、日米開戦がこの日系二世の二人を引き裂く。
差別と迫害の中でのそれぞれの苛酷な戦時体験と異なる戦後の人生。いま二人は懐かしいフィールドで再会し、53年ぶりのキャッチボールを始める”
映画「バンクーバー朝日」で日系人野球の存在を知った。すぐに興味を持ち、この本でその感動と興奮が沸点に達した。
白人至上主義が蔓延る広大で強大なるアメリカ社会の中で、それも差別と不遇が交差する複雑な環境の中で、唯一の贅沢なる娯楽である野球に没頭し、邁進する純粋無垢な若き日系人プレーヤー。
戦争が勃発し、全財産を没収され、住む場所も仕事も全て奪われ、その上、極限の環境にある強制収容所に閉じ込められた。
しかし、昭和天皇と日本を愛した2人は、日本人としての誇りと崇高さを見失う事は決してなかった。野球に打ち込む時の彼らのその溌剌とした堅牢無比で瀟酒な様を、戦時下の追い詰められた日本兵が目にしてたなら、圧倒的不利な絶体絶命の状況ですらひっくり返せるのではないかと錯覚させる程のエネルギーを放ってたのではないか。
まさしく彼らは、戦争を超越した存在と言えなくもない。
日本はアメリカに戦争で負けた。無条件降伏という屈辱をもうけ入れた。しかし、強制収容所に閉じ込められた日系人らは、アメリカに負けなかったし、決して屈しなかった。
それどころか、1972年にアメリカ政府は、戦時中に日系人を強制収容したのは”重大な不公平”と負けを認めさせたのだから。
つまり、日系人に対するアメリカ人の無知を認めたのである。これは、アメリカ白人の日系人に対する畏怖がそうさせたのだろうか。
彼らはアメリカに勝利しただけじゃない。野球選手としてのレヴェルも相当なもので、今の日本プロ野球と同等かそれ以上の、ある意味選ばれた民だったのだ。
日本とアメリカの間で大きく心を揺さぶられつつ、日本人以上に日本を愛し、日本人である事に誇りを感じた。一方で、アメリカ人としてアメリカの地に根付き、住み着き、生き抜いていく覚悟とその様は、神聖なる凄みすら感じさせてくれる。
大袈裟かもしれないが、ノーベル平和賞に匹敵する、いやそれ以上の偉業だと思う。
日本人は、今こそ戦時下を強かに生き抜いた日系人の生きざまに多くを学ぶべきだ。
かつてアメリカに渡った日系人が日本という国を敬い、日本人から多くを学び、それが大きなバックボーンとなり彼らを支え続けてきたように。
もう1つのホームベース
「2つのホームベース」に登場する2人は、ショートとセカンドを守る、西海岸でも有名な日系人コンビだった。
特に、セカンドのキャピー原田(原田恒夫)は、ハイスクール時代には、後に伝説の大リーガーとなるテッド・ウィリアムス(BOS)と共に”オール・カルフォルニア”のメンバーであった事からも判る様に、メジャーレベルのプレイヤーでもあった。
LA近郊に生まれた原田は10歳の時に母親を亡くし、サンタマリア・ハイスクールに通う頃は、姉と妹それに3人の弟を支える一家の大黒柱として、農園での重労働と勉学と野球と3つを1度にこなした。その上、父の厳しい教えで日本語学校にも通わされた。
因みに、ハイスクール卒業時の成績はクラスで1番だった。
貧しい少年時代と壮絶な青年時代を生き抜いた原田氏は、父が幼い子供を連れて日本へ帰った後も、1人で農園を支えた。
そんな原田氏も小さい頃から野球は大の得意だった。14歳の時には既に地元のノンプロチームに所属し、ハイスクールでも1年目からレギュラーだった。
原田氏はジャーナリストになるのが夢だった。ハイスクールでも学校新聞や卒業アルバムの編集長をやり、地元のハンコック・カレッジでもジャーナリストの勉強をした。
しかし、1941年の1つの出来事が彼の人生を大きく変えた。日本が真珠湾を奇襲したのだ。20歳の時だった。
”日本につくか?アメリカにつくか?”
彼は、軍に取られるよりかは自ら軍に志願する方を選んだ。自分を我が子の様に可愛がってくれた、ケリーおばさんの事もあった。
”スポーツ万能で学業もトップだ。それに日本語学校にまで通い、両国語に通じている”
アメリカ軍は、彼を戦争に必要な重大な任務を委ねるべき候補者であると、既に見抜いてたのだ。
1対1なら絶対に負けない
一方で、同じハイスクールで二遊間を組んだ入山正夫は日系人との理由でラリバーの収容所に入れられたが。逆に原田は、日系人であるとの理由ですんなりとアメリカ軍に迎え入れられた。
伍長として陸軍外国語学校に所属した原田だが、当然嫌がらせが続いた。その上、父と姉が別々の収容所に入れられたのだ。
彼は怒った。”1対1で来い!決着をつけよう”と二回りも大きな曹長に啖呵を切った。勿論、体力に自信がある原田は大男を投げ飛ばした。
原田がマッカーサー司令官の直属の部下としてオーストラリアに向かったのは、1942年のミッドウェー海戦の頃だ。
そこで(日本語)情報部隊として最前線に立ったが、日本軍の襲撃を受け、彼らの飛行機は墜落し、殆どが死亡するも、後部座席に押しやられた原田ら3人だけが奇跡的に助かった。
結果的には、これが大きく吉田の運命を変える事は、次回(後半)で述べる事にする。
終戦後の原田は、GHQ経済科学局で占領下の日本の指導に関わった。
戦後の原田氏の活躍ぶりは凄まじく、その交流関係は正力松太郎や永田雅一、果てはレーガンやニクソンまで出てくる。
因みに、ディマジオとモンローを日本に招いたのも彼で、戦後、日米親善野球の開催や日本プロ野球の復興に尽くした事でも有名だ。
但し、GHQには野球で日本を復興させようとするプランがあり、日系収容所と同様に野球を通じて落ち込んだモチベーションを高揚させるという手法を用いた。
”1対1なら日本兵の方が絶対に強い”と確信してた原田も、大和魂を全面に押し出し、戦後日本の復興に生涯を捧げた。
少し長くなったので、今日はここまでです。次回(後半)では、原田氏と入山氏の2人のそれぞれの運命と物語について紹介したい思います。
思い出すことも話すことも苦痛だったんだろう。
副題にあるように
白球のみぞ知る二人の友情と苦悩ということになるんだろうか。
戦争よりも残酷で過酷な2つの運命が53年ぶりにセカンドベースで交差する
と言うのは簡単だが
勿論、こんな経験はある筈もないんですが、改めて、どんな心境当時を支配したのか?生きる原動力となったものは野球だけだったのか?色んな事を考えさせられました。
目標はなくとも目の前だけを見つめて生きるって事の尊さを知った様な気もしますが、上手く言葉に表現出来ないですね。
エンジェルスのスーパースタートラウトの36本を僅か4ヶ月で抜き去りました。
2位ゲレーロJrに5本差で打点もトップに1点差の2位で打撃二冠も射程内です。
オールスター以降は少し調子を落とし心配してましたがここに来て完全復活。
コメントを控えてたのも7月後半に完全失速するかなと危惧してたからね。
転んだサンの6月失速説は完全に外れましたが、
このまま怪我なく順調にいけば、どれだけの数字を残すんでしょうか。
投打共に活躍する”2人の大谷”ですよね。
言われる通りここに来て完全復調。
救援明けはメディアでも騒がれてましたが、ガクンと調子落としてました。
でも単なる疲れから来るもので、大した事はなかったですね。
さてと、このまま順調に怪我なく行けば、50本近くは確定で、打撃二冠も見えてきました。特に今年は精神的に安定してるから、大きなスランプが殆どないですよね。
という事で大谷に関しては、tomasさんの言う通り全く外れてしまいました。