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「野球とニューヨーク」”その1”〜イカサマと汚職と不正が育てた移民の娯楽

2018年02月07日 13時19分29秒 | 野球とニューヨーク

『野球とニューヨーク〜黒い球運を生んだ移民都市』 

 佐山和夫氏のこの本は、彼が生み出した秀作群の中でも傑作の部類に入る。日本のルポライターとしては、特異な部類に属する偉大なる作家だと思う。

 タィトルからすると、少し解りにくいが、ぶっちゃけ言うと、大リーグのイカサマ野球と、政治の汚職と不正が結びついたドキュメンタリーでもである。スポーツと八百長というのは、よくあるケースで、特にアメリカでは、ベースボールの誕生と繁栄と共に、不正や八百長も恐ろしい程の規模で行われてたのだ。
 
 ”ニューヨークの試技”として発展したアメリカンベースボール”校技”として始まった日本の野球との違い。イカサマゲームと純正野球、商業主義と精神主義。とにかく対照的過ぎる2つの国技でもあるスポーツ。実際にどこがどう違うのか。

 先ず、マンハッタンに産み落とされたベースボールは、アイルランド系移民の娯楽として、大きく成長する。本場、英国では、子供が遊ぶ野球に似た球技はラウンダーズと言われ(ラウンダーではボクシングと)、アメリカに上陸すると、直ぐにタウンボールやNYゲームとして楽しまれた。そして、ベースボールとなり、マジソンスクエアパークの消防団の娯楽として、初の産声を上げる。

 1845年ホーボーケンで初のベースボールが行われた。"ベースボールの生みの親"アレクサンダー・カートライトが創ったニッカボカーズが初のチームとされ、当初は21点先取のゲームであった。 
 1850年ブルックリンにベースボールが飛び火するとチームが急速に増え、見て楽しむスポーツになり、一気に大衆化が進む。1845年のアイルランドのじゃがいも飢饉は"アイルランドの不幸とベースボールの歴史的行方"を左右した。 
 つまり、ベースボールはマンハッタンで懐胎され、ホーボーケンで誕生し、ブルックリンで急成長する。鉄道の発達と南北戦争の終結が追い風となり、ベースボールの大衆化と商業化は一気に加速した。

 注目すべきは、ベースボール誕生とステロイドの誕生(1848年)が時を同じくしてる事だ。南北戦争と共にベースボールもステロイドも急成長した。ここにても、ベースボールとステロイドの密接な関係は無視できない。

 1858年には、NYとブルックリンの選抜チームとで、4万5千人もの大観衆を集めて行われた。"ベースボールをビジネスに変えた男"Wカミヤーはスケート場を改装し、6FTのフェンスで囲み、初めて有料でゲームを見せた。今で言うワールドシリーズの原点である。このフェンス付きのグラウンドが、ベースボールの将来を決定づける。

 当時、NYには6つのクリケットチームがあった。1840年までは、競馬を除くと、最も人気あるスポーツだったが。時間が掛り、ルールが複雑で、道具が高価という事もあり、メディアの支持を受ける事なく、失速していくが。英国系の独占競技というのも嫌味に映ったか。

 しかし、その純朴たる移民の娯楽も、NYの上流階級であるWASPと真っ向から対立し、アイルランド移民を支え、やがてNYを1850年から約70年に渡り、支配する”タマニー派”の悪の影響をもろに受け、不正やイカサマと大きく結びついていく。

 元々、先住民族で少数民族タマニ一族は、白人階級の強固な一派に対抗し、移民の支援を受け、アメリカ社会の底辺から脱出していくのですが。  
 当初は、貧民や労働組合を支援し、カトリックを支持し、人気を得てたが。彼らの支持基盤は、急激に増加する移民に傾き、しばし援助と引き換えに政治的支援を確保していく。そこに、タマニー派が入り込んだ。

 不正といえば、1919年のブラックソックス事件が有名だが、勿論これにもタマニー派が大きく絡んでる。このブラックソックス規模の不正は、それ以前にも日常茶飯事の如く、延々と繰り広げられてたのだ。

 ベースボールでの八百長は、そっくりそのまま彼らの資金源になった。スコットランド移民で、タマニー派のボスであるWツィード(ウィリアム•M•トウィード)は"イカサマ野球の伝道師"と揶揄された。

 しかし、彼は数多くの貧困にあえぐアイルランド系移民を救ったのも事実で、”正当なる汚職”を自負した。良くも悪くもその時代と、ニューヨークを象徴する人物でもあったのだ。
 実際、タマニー派の連中は、港でアイルランド移民を待ち構え、入国手続きから職探しまで引き受けたのです。5年も掛かる市民権を、わずか数カ月で手に入れてやった。こうやって、"新参者"達は皆、彼らの言いなりになり、以降、選挙の際は"タマニーマシーン"として実に円滑に作動した。

 祖国を捨てた(アイルランドの土地の86%は、イングランドの地主の所有だった)アイルランド人にとって、危険だが頼りになるボスでもあった。彼らは、少し先に移住してる先移民?の差別も受けた。この勢力に対抗するのも、またタマニ一派の仕事だったのだ。

 また、この時期は南部から、大量の黒人奴隷も、北部にやって来たから、最低賃金をも彼らと奪い合った。黒人以下に扱われるのしばしばだった。金も知識も教養もない彼らは、タマニー派に頼る他なかったのだ。NYに拘ったのも他に行く所がなかっただけのだ。

 因みに、このNYに留まれたアイルランド人はまだまだ良い方で。後から来たアイルランド移民はアパラチア山脈に追いやられた。その後の彼らの生き様は想像に絶する。
 ドイツ移民はハドソン湾を北上し、西へ向かった。彼らは教養があり、順応性もあった。その後、イタリア人はギリシャ人がロシア人がやって来た。1880年の初めは、NYの人口の3/4が移民で占められた。

 そんな極悪な環境の中、彼らは生活の基盤全てをタマニーに捧げてしまう。そして一派は仕事もスポーツにても、大きな権力を振う様になる。
 トウィード•リングとは、"正当なる汚職"に代表される悪どい連中を元に、組み込まれたネットワークで。それにより、請負業者と市の役員と民主党を結びつけた。こうしたタマニーホールの活動は、"陰のNY市政"と呼ばれだ。


 ここで、ウィリアム•M•トウィードの事を少し。彼は善と悪が錯綜する難しい男であリ、やる事も、その人物像も実に様々だ。
 当時のNYは、明らかに不正に歪んでいた。彼は、NY市の民主党を牛耳り、最高権力者として、NYを食い物にした。着服した公金は3億ドルにも及んだ。

 判事•市議•記者には賄賂をカマせ、反対派には役職を与え、骨抜きにした。一方で、貧しい人には施しを与えたから、多くの人々に愛された。お陰で、タマニーホールは以後、腐敗政治の代名詞となった。

 1851年、彼はNY第5区の区長となり、政治の世界に入る。NY市政の暗黒面に初めて触れたが、慣れるのも早い。手始めに、イーストリーバーに浮かぶ島を巡り、10万ドル強の契約に成功。多額のキックバックを得て、市議を買収し、鉄道に関する利権を得る。40人の息のかかった盗賊達(役人)と共に、市政に食い込む組織的犯罪集団と化す。お陰で、NYの市税は、この3年間で54%も急騰した。

 2千人の受刑者の内、1500人を釈放。警察も賭けや売春や酒場と通じており、全てにおいて悪事と結びついてた。そんな汚れた土壌で育ったベースボールと、東京のど真ん中の本郷の屋敷の中(1889年)で、籠城主義を貫いてきた野球とは、大きくかけ離れ過ぎてるのだ。




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