”ニキータ•ミハルコフ監督が、名作「12人の怒れる男」(1957)を現代のロシアに舞台を移してリメイク。養父殺しの容疑を掛けられたチェチェン人少年の裁判。
明らかに有罪と思われていた裁判は、ひとりの陪審員が疑問を投げ掛けた事から二転三転していく”
被告人はチェチェン人少年で、被害者はその少年の養父で元ロシア軍将校と、いかにも現代のロシア的な属性を与えた筋金入りのシナリオだ。故に、評議の合間に生々しいチェチェンでの戦いの様子が何度も登場する。
チェチェンに対する厳しい現実、それに社会主義からいきなり資本主義に突入したロシアの歪んだ現実。この2つの現実が垣間見れた事も貴重な体験だった。
それに、陪審員同士の討論というよりも闘牛の様な闘い。この複雑で重く深い色付けが、この作品の凄みと本気度を感じさせる。
因みに、チェチェン共和国はロシアの0.1%の面積で、人口比でも0.7%の小国だが、その存在はロシアにとって、喉に突き刺さった魚の小骨の様に苛立たしい。
実際にこの映画の様な事件が起きたら、ものの10分程で青年の運命は決まっていただろう。事実この映画でも、最初に無実を主張したのは陪審員1号だけだ。
つまり、チェチェン人以外にとってこの事件は、”チェチェンの粗暴なガキ”が犯人であり、今更話し合う必要などないという展開で始まるのだが・・・
ロシア版”怒れる男”たち
さて、原作のアメリカ版では、11名の陪審員が”有罪”に挙手する中、ヘンリー•フォンダ扮する陪審員8号がただ1人、”無罪”に手を挙げた所から物語がスタートした。
しかし、このロシア版「12人の怒れる男」(2007)でその役を演ずるのは、陪審員1号(セルゲイ•マコヴェツキイ)。彼はロシアと日本の合弁会社のCEOだが、その言い分はアメリカ版の陪審員8号ほど説得的ではない。
彼が無罪に挙手したのは、”結論を出すのは早すぎる”という頼りない論拠だ。しかし、”再度投票を行い、無罪が自分だけだったら有罪に同意するが、挙手では意見を述べ難いし、考える時間を稼ぐ為にも記名投票を”と食い下がったのは立派だ。
日本版のリメイク「12人の優しい日本人」では、陪審員2号(相島一之)が、”いいんですかこんなんで、もう一度集めて下さい。僕もっと話し合いがしたいんです”と一人抵抗したのと比べ、平和ボンボンの”優しい日本人”と比べ、全く雰囲気が違う。
改めて投票をしてみると、何と今度は陪審員4号が無罪に票を入れてた事が判明。
”ユダヤ人特有の美徳と思慮深さで考え直した。被告人の弁護士にやる気がなかったのではないか?”と問題提起すると、周りは”なるほどそれも一理あるな”という雰囲気となり、いよいよ本格的な評議が始まる。
何事もそうだが、多数決の論理だけで簡単に全員一致としてはダメで、原作の陪審員8号や、ロシア版の陪審員1号の様な”異端児”の存在がやはり裁判には不可欠だ。
そして、一癖も二癖もありそうなゴツいロシアの12人の陪審員を取り纏める陪審員長の陪審員2号には、この映画の監督•脚本のニキータ•ミハルコフ本人が演じている。
だだっ広い学校のオンボロ体育館の中で繰り広げられる160分の討論の半分以上を支配する、彼の抜群の存在感は必見ですね。
陪審員2号
この陪審員長は、表向きは民主的で妥当なもので、あまり自分の意見を言わず他の陪審員の発言を促す。ただ、評議が熱気を帯び、次第に有罪から無罪に転ずる陪審員が増えていくのだが、彼がずっと有罪のキープしてるのには何かが臭う。つまり、彼は最後に隠し玉をちゃんと用意してたのだ。
極端な強硬派で有罪と決めつける陪審員3号をセルゲイ•ガルマッシュが演じる。タクシー運転手の彼は外国人を毛嫌いし、チェチェンの少年にも偏見を抱いてた。しかし最後の最後に無罪に転じた所で、陪審員長が待ったをかける。
つまり、”少年は無罪で評議終了”となりかけた中、”ちょっと待て、陪審員長も一票の評決権を持っている”と述べ、有罪の立場をとる。
アメリカ版も陪審員の評議の中に、12人それぞれの人生が映し出されていたが、ロシア版はそれを徹底的に追及した。
陪審員1号の無罪の問題提起がなければ、最初で述べた様に、評議は僅か10分で終了してた筈だ。しかし、評議が熱を帯びてくるにつれ、少年を有罪とするか無罪とするかについて、陪審員1人1人の人生そのものをぶつけ合う事になる。
2時間40分の重厚な密室ドラマに飽きる事なく引き込まれていくのは、各陪審員が自分の人生と向き合った真剣勝負を見せてくれたからだ。
1人の少年の有罪•無罪を決定する為に、ここまで徹底的に自己と向き合う事が必要なのだ。とても日本人には真似の出来ない芸当ではある。
古典的ダイナミズム
「12人の優しい日本人」を見た後なのだろうか。パロディっぽさが全くなく、実にロシア人らしい実直さと純朴さが十全に表現されてる。
よく言えば芸術的、悪く言えば愚直。でも私はこういうタイプには入れ込んでしまう。ロシア人の武骨な情けと日本人のご機嫌取りのお情けの違いがよーくわかった。
被告が両親を知らずに育ったチェチェンの哀れで危険な青年という設定も憎い演出だ。
その上、12人の陪審員一人一人が心に深い闇を持っており、もう一人の矛盾した自分と不可解な社会との間で葛藤する。12人のそれぞれの重苦しい物語の息苦しい吐露が、被告の有罪を次第に打つ崩していく。
最後は、裁判で証言した女のトリック(陰謀説)を、冷静な建築家で業界の裏ビジネスに精通する陪審員11号が見事に見抜き、全員無罪で万事休すと思いきや、監督が自ら演じる陪審員2号が被告を敢えて有罪にする。
つまり、とりあえず有罪にし、真犯人を見つけ出した後に刑務所から出し、面倒を見ようと持ちかけるのだ。
ミハルコフ監督の古典的な狡猾さとロシア人特有の愚直なダイナミズムが、この作品を支配した瞬間だ。
ロシアというと不器用で融通の効かない”赤の帝国”というイメージが強いが。この映画は、今現在のロシアを象徴してる様に思える。武骨だが情けに脆く、純朴無垢な正義感も持ち合わせてる。観る前は、もっとぎこちなく固いイメージを予想してたが、いい意味で裏切られた。
結局、12人の怒れるロシア人はロシアのやり方で評決を下したのだ。
名作を超えた名作
ただ、被告の青年が牢獄の中で”アホずら”して軽やかなステップを踏むシーンは全く余計だったし、最後に小鳥が外へ飛びだすシーンも曖昧に映る。それに、12人の中に女性がいれば、裁判で証言した女の嫉妬はもう少し早く見抜けたであろうし、男の視点からだけでは討論には限界がある。
野郎同士のゴツゴツした展開にウンザリした人も多いだろうし、終始怒れる男を演じたタクシー運転手(陪審員3号)の極端な感情の吐露もクライマックスにしては、ぎこちなく聞こえた。
こういった主観的な不満もなくはないが。強引に論理の積み重ねのみで押し通すのも、非常に新鮮味を覚える。全体としてすごく纏まってたし、監督の意図は凄く伝わってきた。
アメリカ版「十二人の怒れる男」は、アメリカ映画の名作中の名作だとずっと言われてきたが、ロシア版「12人の怒れる男」はそれ以上の名作とも言える。
何故なら、”この名作”には”あの名作”にはなかった、陪審員12人の人生訓が凝縮している。
陪審員が少年の犯罪を裁くについて、どうしても人生訓と向き合わざるをえない事を説得力をもって教えてくれたのだから。
この陪審員長の言葉が全てを物語ってましたね。
監督が脚本と主演を務めるなんて、余程の肝入りです。
特に2時間半の白熱した議論は、1957年の名作「12人の怒れる男」を上回ってるように感じました。
最後に少年をあえて有罪にし、犯人をいい気にして泳がせ、罠に掛けるという見事なオチもマゴベツキイ監督の執念と鬼才を感じます。
だだっ広い体育館で行う辺りもロシア的で無骨さを感じますね。
でも、女性が一人でもいれば、少し幅が和らいだでしょうが、愚直な緊張感は犠牲になります。
「12人の優しい日本人」を見た後だっただけに、余計に名作に思えました。
緊張感の連続で特に陪審員3号のタクシーの運転手が妙に凄むんですよねぇ(嫌)
でも冷静沈着なユダヤ人がいて、怒ったら怖いチェチェン人もいて、12人の陪審員の人生論がぎっしりと詰まってました
うーんでも最後は少し疲れたかなぁ
ロシア人はこういう映画を何度見てもビクともしないんだろうなぁ〜
毎日こんな重たい映画ばかり見てたら、流石に死んじゃいますね。
ロシアなんて、規模も含めて革命やテロは当り前ですから。
この作品で印象に残ったのがチェチェン人の陪審員でした。常に凄みを利かせる陪審員3号に刃物を突きつけ、それ以降3号は大人しくなり、最後には無罪を主張します。
意外にかわいい性格だったりして・・・