象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

漫画ではシリアスな映画は描けない〜映画「藁の盾」(2014)に見る、限界と矛盾

2024年07月26日 03時02分03秒 | 映画&ドラマ

 漫画家・きうちかずひろが、実名(木内一裕)で小説デヴューを果たした作品の映画化とあってか、アクション映画としては見応えがあったものの、サスペンスとしては漫画の領域を完全には抜け出てはいなかった様に思えた。

 総資産1000億とも噂される経済界の大物・蜷川(山崎努)の孫娘が、清丸(藤原竜也)によって無残な形で殺害された。
 ”この男を殺して下さい。お礼として10億円お支払いします”との衝撃な広告を全国紙に流した蜷川は、全国民に対して清丸殺害の協力を依頼する。
 10億円の懸賞金を掛けられた凶悪犯の命を、必死で護衛&輸送するSPや警察官らの奮闘を描いた映画だが、前半は迫力ある破壊シーンが鮮やかで見応えがあったものの、コミカル的な粗が目立ち、後半は完全に失速する。最後は、狂った殺人鬼に振り回されるだけの凡作に終った印象が強い。

 監督の三池崇史氏には失礼かもだが、僅か120分強で正義や死刑制度のあり方を訴える事自体に無理がある。むしろ、前半の勢いでアクション路線そのままに突っ走ればよかった。
 映画とは言え、所詮は興行であり娯楽であり、フィクションである。キャストもセッティングも非常に充実してたのに、後半はそれらの全てをドブに捨てたようなもんだ。


バカ正直な正義とクズ犯罪

 正直を言えば、この作品には支柱となるコンセプトもドラマとしての厚みすらもない。あるのは、幾分漫画的にセッティングされたキャラクターだけで、後半はその漫画的な幼稚さが独り歩きしてた様に思える。
 一方で、SP(セキュリティポリス)が護衛する対象が権力者や富豪層ではなく、幼女を強姦しては殺害する狂ったクズ犯罪者である。

 そんな漫画的セッティングをどう感じるかは観る者の勝手だが、私には浅薄で短絡的に思えた。凶悪犯役の藤原竜也のクズ演技を評価する向きもあるが、私には陳腐でコミカルな人物にしか映らなかった。
 凶悪犯の護衛とは言っても、市民や警察官を含む4人の犠牲者を出した結果となったが、SPが命がけの仕事とは言え、バカ正直に凶悪犯に対峙するSP銘苅(大杉たかお)の存在も微妙で、ここら辺の展開も理解に苦しむ所がないとは言えない。

 ”こんなクズとっとと殺して10億円を山分けしましょ”と開き直る、SPの白岩(松嶋菜々子)の気持ちが痛いほどリアルに映る。
 一方で、正義と仕事をバカ正直に優先する、白岩の上司・銘苅(大沢たかお)の決死の説得は曖昧で、不透明な領域を抜け出ない。
 リアルで言えば、最後には死刑判決を受け、”どうせ死刑なら、もっと殺しときゃよかった”と笑って開き直る凶悪犯だが、死刑判決が決まった後に(秘密裏の)取引でクズ男の身柄を、10億を用意した蜷川に差し出せば、それだけで物語は完結した筈だ。
 正義を描くのなら、(現実にはありえないかもだが)そこまで徹底してもよかったのではないか。言い換えれば、銘苅(大沢たかお)が思い描くバカ正直な正義は自らも危険に晒し、結局は多くの悲劇や混乱をもたらし、クズ男を死刑に追い込んだだけである。
 男は過去に、6歳の少女を暴行殺害して逮捕されるも、8年後に出所し、再び7歳の少女を殺害する。この時点で男は処刑されるべき運命にある筈だが、そんなクズ男を命を賭けて護衛する意味がどこにあるのだろう?

 ”凶悪犯も1人の人間であり、人権がある”と言いたげな展開でもあるが、映画としても中途な物語に終わった。その他にも、色々と突っ込みたくなる不可思議なシーンも多々あったが、原作よりも展開を複雑にし過ぎたが為に、折角の大作を台無しにした格好となる。
 

もう1つのエンディング

 全く”策に溺れる”とはこの事だが、ミステリアスもシリアスもシンプルに組み立てるから、リアルが増す。
 そのリアルという点で言えば、最後に銘苅とクズ男が1対1で対峙した時、蜷川の申し出で懸賞金が20億以上に跳ね上がるが、フルボコにした男を極秘で蜷川に引き渡せば、起死回生の逆転打となり得たろうか。いや、もう1つの幕切れとして見ても悪くはない。

 ”アンタには正義を下す権利がある。このクズ男をどう処分するかはアンタ次第だ”と言って、20億円の大金を犠牲となった人達の遺族に振り分ければ、これも(歪んではいるが)立派な正義ではある。少なくとも、フィクション上の正義としてみても、矛盾や誤解はない筈だ。
 一方で、公平に見ても、バカ正直に(大金になる)クズ男を警視庁に引き渡すバカはどこにもいない筈だ。言い換えれば、正義をバカ正直に振りかざす事と、脅迫や暴力を無差別に行使する事は同じ次元にある様に思える。

 三池崇史監督には言葉は悪いが、カール・F ・ガウスが”数学は帰納的であるべきだ”と言い放った様に、映画も帰納的であるべきだろう。だが、演繹的手法に拘ったが故に、大作になるべき作品を凡作の中に閉じ込めてしまった。
 つまり、アイデアや発想は帰納的に使うから独創や創造となりうるが、演繹的に使えば凡庸に下る。
 一方で、「タイタニック」という駄作を大作に作り変えたJ・キャメロンとは何が違ったのだろうか・・・



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