象が転んだ

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「菊と刀」と”恥と罪”〜義理と人情に見る日米文化比較

2023年11月30日 00時44分52秒 | 読書

 ロバート・ホワイティングが日本野球を通じて日米の文化比較をユニークな形で記した「菊とバット」(2002)のタイトルは、罪と罰のあり方を通して日米文化比較を論じたルース・ベネディクト氏の名著「菊と刀」(1946)をもじった事は有名な逸話である。
 2人の大きな違いは、後者は一度も来日せぬまま既存文献や文化資料や米国にいる日系移民への聞き取りなどを基に日本文化論を執筆したのに対し、前者は1962年にアメリカ空軍諜報部員として訪日して以来、30年以上を日本で生活してきた点にある。

 私が「菊と刀」を知ったのは「菊とバット」を読んでからだが、ホワイティング氏は”日本を知り過ぎてる”という感もしないではない。
 事実、東京ドームの56000人の超満員の観客だが、彼は座席数を実測し、42761である事を突き止め、東京ドームでの野球の試合での最多観客動員数が46000人を優に上回るのは実際には不可能である事を実証してみせた。
 また、イチローは”メジャーで通用しない”と断言し、大きな物議を醸した事もある。
 確かに、ホワイティング氏の著書には”日本人は所詮日本人”という本音が見え隠れする。日本人には耳に痛い言葉だが、日本国内の度が過ぎた大谷フィーバーを見てると、満更外れてはいない。
 そう、日本人は今も昔も殆ど何も変わっちゃいないのだ。

 その一方で、ベネディクト氏は”義理と人情””恥と罪の文化”を比較して論じ、その後の日本人論の源流となった。戦後80年近くが過ぎ、日本人は何が変わり、何が変わっていないのだろうか?
 ”義理と人情を秤(はかり)にかけりゃ、義理が重たい〜男の世界・・・”
 高倉健が切々と歌う(「昭和残俠(ざんきょう)伝(1966)の主題歌である)”唐獅子牡丹”ですが、哀愁を帯びたこの歌い出しは、ふと口ずさむ昭和の名曲とされる。
 以下、「義理と人情と誠実と〜日本人の行動の”型”を読む」から、主観を交えてですが、大まかに纏めます。


義理と人情

 ベネディクト著の「菊と刀〜日本文化の型」(長谷川松治訳)が刊行されたのは敗戦直後の事で、日本文化論の定番になり、”罪の文化”と”恥の文化”は日本人のマジックワードとなり、本書の本質でもあった。
 つまり、内面的な罪の自覚に基づく欧米流の”罪の文化”に対し、日本の”恥の文化”は他人の批評を物差しにする。
 面白いのは、そこに至る筋立てにある。
 ”義理ほどツラいものはない”は(健さんのせりふではないが)第7章のタイトルであり、続く第8章は義理を果たすための行動である”汚名をすすぐ”と続き、第9章では義理と対立する”人情の世界”にメスが入れられる。
 そして最後に”徳のジレンマ”が第10章の主題となる。つまり、本書の主軸こそが義理と人情の分析なのだ。

 ”義理を返す”または”義理を果たす”事は(特に日本においては)、社会生活の基本となる。
 一見、情緒的と思われる義理の世界だが、本書では義理を米国社会における”借金の返済”という視点(補助線)で捉えている。
 米国では、銀行からの借入金が返済できなければ、破産=”支払い不能に対する刑罰”となり、とても厳しい法律上の刑罰となる。
 一方、日本では”義理を知らぬ人間”は仲間外れにされ、つまはじきされる。
 しかも悩ましい事に、人生におけるあらゆる接触が必ず何らかの”義理”を招来する。つまり、社会生活とは義理の貸借関係が絡み合うものである。
 夏目漱石の「草枕」ではないが、”とかくに人の世は住みにくい”のだ。

 こうした”義理”の世界だけでは人は息詰まってしまう。でも日本には、もう一つ別の”人情”の世界がある。
 日本人の入浴や食事にも、欧米にはない日本人特有の人情が端的に現れている。事実、温泉や会席料理は今もインバウンド観光客を引き寄せ続けている。
 日本の人情は、意外に魅力的な普遍性を備えてるのかもしれない。
 それに、もう一つ興味深いのは、同性愛を”伝統的な人情の一部分”とみなし、”武士や僧侶の様な高位の人びとの公認の楽しみ”と述べてる点だ。しかし、明治以降になると(西洋人の意を迎えようと)処罰すべきもの”と定めてしまう。
 ともあれ日本では、”可能な肉の快楽を楽しむ”事は罪ではない。
 一方で、罰の文化には原罪の神学があるのに対し、日本では人間堕落の教えを説かないし、人情は非難してはならない”天与の祝福”であると説く。但し、そうした人情も義理にぶつかれば、道を譲らなければならない。
 まさに”徳のジレンマ”である。

 こうした義理の世界も、国家や法律に対する義務である”忠”には従う必要がある。
 主君の敵を討てば国法を破ってしまう。
 そんなジレンマの典型として「忠臣蔵」があるが、仇討ちを果たした四十七士が切腹する事でジレンマは清算される。
 これは”死によるジレンマ清算”という訳だが、それは日本文化特有のものであろうか。一方で、欧米にも死による清算はないとは言い切れないので、ある種のモヤモヤ感が残る。

 
世間の目と自重と恥の文化

 本書では、ジレンマに直面した際に私利を追求せずに”誠実に対処する”事が求められるとの指摘がある。
 つまり、”まこと”や”まごころ”こそが日本の倫理規範の基本になり、その基本を踏み外しては社会生活は送れない。
 ①利潤を追求する行動は非常に悪い事と考えられ、忌み嫌われる。②感情に走ってはならない。そして、③まことのある人のみが人の頭に立てる。
 これらの指摘は、経営者や官僚や政治家が肝に銘じるべき事だが、悲しかな、今では大半が無視される傾向にある。 

 様々な要素を見極めながら誠実に振る舞う為には、慎重な判断力つまり”自重”が求められる。
 ”他人の行動の中に看取されるあらゆる暗示に心を配る事、及び他人が自分の行動を批判する事を強く意識する”事こそが自重である。
 この自重を促すものが”世間”であり、世間の目を意識して行動する事こそが”恥の文化”となる。
 ”恥の文化には内面の基準がない”と指摘され、戦後の知識人は深く恥じ入った。
 事実、”我々の醜い姿を赤裸々に晒すものであり、我々に深い反省を迫ってやまない”と、法社会学者の川島武宜の解説にも、そんな恥じ入る感じが漂う。
 だが恥を知る事と内面の基準を持つ事は水と油の関係ではあるまい。つまり、互いを受け入れる事は可能な筈だ。
 例えば、刑事ドラマの主役らが持つのは、その両面を兼ね備えた日本の社会人の理想形だろう。恥を知る事は、しっかりした職業意識や凜(りん)とした姿勢にも通じるのではないか。

 一方で、恥の文化の最大の問題は、世間の目が硬直化し、行動の自由を縛ってしまう事である。例えば、コロナ禍で問題になった同調圧力だが、そこにも世間の目が見て取れる。
 同調圧力は日本以外の世界にも存在するが、従業員にコロナ感染者が出ると会社に謝罪会見を求める雰囲気は、日本社会の病理であると著者は指摘する。
 ひたすら謝罪を求める不寛容さが、世間そのものを窮屈にしてはいないだろうか。
 ”恥の文化を克服した”と思い込んでる日本人たちこそ、本書を改めて紐解いてみる価値がある。
 以上、日経BOOKプラスからでした。


最後に

 あるフォロワーの記事で久しぶりに「菊と刀」を思い出したが、副題は”Patterns of Japanese Culture”とある。
 ”菊と刀”という日本人が考えた様な見事なタイトルだが、著者が最初に考えてたのは“We and the Japanese”だったが、執筆中に出版社は“Assignment Japan”(日本人研究)を提案する。が、初期の代表作「Patterns of Culture」をもじった“Patterns of Culture Japan”への変更を希望。その後、出版社は“The Lotus and the Sword”(蓮と刀)を強く推した為、ベネディクト氏はLotusを菊(Chrysanthemum)に変える事で現題に至った(ウィキ)。 

 つまり、アメリカ人が”日本文化の型”を”菊と刀”に置き換え、文化人類学の視点で考察した訳だが、戦争情報局の日本班チーフだったベネディクト氏がまとめた、5章から成る報告書「日本人行動パターン」を元に執筆されたという。
 確かに前半は、戦時の日本人の集団主義や未開民族的な行動を見下した様な内容が目立たなくもない。

 “菊の優美と刀の殺伐”に象徴される日本文化の型を探り当て、その本質を批判的かつ深く洞察したベネディクト氏の日本人論だが、日本人の行動の根底にある独特な思考と気質を暴いた辺りは誤解を招く部分もあるが、見事な切り口でもある。
 更に、”恥と義理の文化”を鋭く分析し、”日本人とは何者か?”を鮮やかに論じた点は斬新でもある。

 ”恥”とは他人が自分をどう思うかの視点で見つめた欠点であり、”罪”とは自分が自分を見つめた上での欠点である。
 難しく言えば、日本の文化を他者との相対的な空気を意識する”恥の文化”と、欧米の文化を自律的な良心を意識する”罪の文化”と定義し、倫理的に後者が優れてるとの著者の本音が見えなくもない。
 それに、日本人は”優雅さの影に凶暴さを隠してる”との指摘は(時代錯誤とも取れるが)、満更外れてもいない様な気もする。

 一方で、著者が指摘する様に、今の日本には恥も義理にも基準が必要である。
 (何度もしつこい様ですが)現代集合論にては素朴集合論を公理で固めて矛盾をなくした様に、恥や義理も基準を設けて曖昧な矛盾や誤解を排除すべきである。
 そういう意味では、もう一度日本人が読むべき古典的名著であると思うのだが・・・
 でないと、日本人は永遠に昔の日本人のままである様な気がしてならない。



2 コメント

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西洋人とキリスト教 (平成エンタメ研究所)
2023-11-30 09:13:56
西洋人の「罪」の意識はキリスト教に由来すると聞いたことがあります。
人間には原罪があり、神は常に自分たちを見ていて、人は神の視線を意識している。
「罪と罰」のラスコリニコフは金貸しの老婆を殺害しましたが、謝罪したのは神に対してでした。

一方、日本人にはキリスト教の神の視線がありませんから、気にするのは世間の視線。つまり「恥」です。

まあ、現在の西洋人がどれくらいキリスト教に縛られているかはよくわかりませんが、イスラム教の方々はガチガチに信仰されていますよね。
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エンタメさん (象が転んだ)
2023-11-30 13:53:21
アメリカ人にとって神とは(合衆国憲法同様に)、自分に都合の良いように創り上げた存在なんですかね。
一方で、原始キリスト教などのガチな宗教もありますが

言われる通り、イスラム教となると信仰が硬直化し、紛争や争いが起きる度に”アラーの神”と叫んでも現実には被害者が増えるだけです。
インドの戦争映画では、”自らではなく敵に命を捧げさせる”とありましたが、(いいか悪いか別にして)アメリカやイスラエルのやり方にも共通します。

これからは、”神のために”ではなく人類が穏やかに生きる為に神が存在するという柔軟な信仰心が必要になるでしょうね。
義理や人情も柔軟に捉える事で矛盾や誤解を防げればとも思いますが・・・

コメントとても勉強になりました。
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