象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

「博士を殺した数式」に見る、殺人予測方程式と数学的未来予想図

2023年12月19日 14時36分14秒 | 読書

 ”数式”というタイトルと、エドガー賞(最優秀新人賞)ノミネートという言葉に轢かれた私も馬鹿だったが、ミステリーの質や重厚感はノミネートに恥じないレベルだっただけに、空っぽな幕切れ?には実に残念である。

 ”大人になって初めて算数と数学の違いを理解した。数学の才能ほど、純粋に洗練された知性と大学で獲得する様な見せかけの知性の違いを明らかにするものはない”
 本書の主人公であるヘイゼルの言葉には、真の知性がどれほどに尊いのかを教えてくれる。
 例えば、この謎解きミステリーのテーマでもある”知性が自然界に働く全ての力と自然の状態を把握・分析する能力を持ってるとすれば・・・未来も過去も同じ様に見える筈だ”という、ラプラスの言葉にもある様に、数学と知性の密な繋がりを理解出来よう。
 一方で、”原因がそのまま結果に繋がり、過去だけで未来を見通せる”という古典的で単純なラプラスの理論だが、故に、この悪夢のテーマにした映画や本はしばし登場する。


数式とミステリー

 遺された数式から始まる暗号謎解きミステリーだが、シアトルで潰れかけの古本屋を営む女性店主ヘイゼルの元に、養祖父で天才数学者のアイザック・セヴリーが自殺したとの知らせが届く。が、ヘイゼル宛の遺書には自身の研究を破棄し、”極秘の方程式をある人物に届けてほしい”との依頼が書き記してあった。
 数学音痴で、本当の家族ではない彼女に、なぜ遺書は託されたのか?
 数学の世界に放り込まれた、不幸な生い立ちを持つ彼女が方程式をめぐる殺人事件に翻弄されつつ、養祖父の死の真相に迫る・・・

 アイザックは交通のパターンを完全に予測する為に、ノイズというカオス的パターンを数学上の定数に要約しようとした。つまり、予見不可能な様々な事を定数化(計量化)しようとしたのだ。
 しかし、そんな彼の研究が後々、セブリー家にとって不運な事故を次々と引き起こすとは?誰が想像できただろうか。
 まさに、”博士を殺した数式”いや”博士が遺した数式”の呪いは、一族の隅々にまで広がっていく。

 そこで、謎退きの中心人物である老アイザックの研究の1つに、交通問題に関する数理モデルがある。
 交通は自動車の問題だが、同時に数学の問題であり、交通はバラバラなものの集まりではなく予測可能な有機体でもある。
 事実、渋滞を避ける為に道路を拡げ、インフラ整備で多額の税金を浪費する。更に、エコカーを増やす事で逆にEV開発競争を無駄に熾烈化させ、無駄な投資がなされる。故に、車の絶対数を少なくする方が数学的に見ても効率的だし、人間にも環境にも財政にも優しい。
 更に、”数学者が政治に利用されるとロクな事はない。アジアの何処かで25万もの人間が焼き死んだではないか”とも語る。
 確かに、政府に依存する科学者の態度が研究と思考を弱め、脳を腐らすのは歴史が証明している。
 この様に、アイザックが地球環境の為に行った数理モデルが、やがて殺人予測モデルを生み出し、最後には政治目的に利用される危険性をはらんでしまい、自らが生み出した方程式と共に自分を消し去ろうとする所は、数学者の潔さを実によく現している。

 一方で、政府に利用されがちな物理学を選択した息子のフィリップにも苦言を与えていた。
 彼が研究する素粒子物理学、つまり「超弦理論」の本質は、父アイザックの確固とした計量可能な世界とは全く違った。
 カオス理論の不透明な深みで、父は規則性や均一性やパターンを見受けた。彼のモットーは”宇宙は全てを知り得る”だが、長男フィリップは”宇宙は知り得るが、それはある程度まで”であるとし、全てが宇宙が誕生した時に決められた訳ではない。
 事実、父の世界と決定論への恐怖が素粒子物理学を目指した理由の1つでもあった。つまり、不確実に支えられた宇宙には安全性があり、そこでは素粒子は気まぐれで不規則で奇妙であり、そこには誤りを直す余地がある。
 確かに、計量による規則性を追い求める数学と、不規則な世界から新しい何かを見出す物理学の違いとも言える。


不都合な運命と”遺伝子の肥溜め”

 アイザックが不可解な自殺を遂げた半月後、彼の孫娘であるシビルがこれまた不可解な転落死を遂げる。この老数学者がヘイゼルに寄せた手紙には、自身の研究を処分するよう記されていた。しかし、研究を導くパスワードが解らず、モタついてる間に2人目の犠牲者が出てしまった。
 ”急がないと3人が死ぬ。私はその1番目だ”との遺書は本当だった。老アイザックはともかく、セビルの死によりセブリー家は一気に窮地に追い込まれていく。
 一方で、娘を失ったフィリップの心は荒み、教え子でウクライナ人の女学生アニトカに惹かれる様になっていく。だが、謎の中年女(ネリー)が夜行性動物の如く、彼をしつこく追いかけ回す。彼女はアイザックの数式を完成させる為に、フィリップを必要としていた。

 ヘイゼルとグレゴリーは孤児で、父親は4歳の娘と6歳の息子を捨て、母親はがんで死んだ。最初の里親は、不定期の臨時小学校職員のトム(フィリップの弟)とフリーのバーテンダーで働く妻カーラであった。が、トムは(セブリー家とは名ばかりで)2人とも精神障害に陥り、その正体は麻薬常習犯である。
 やがて、トムは幼い兄妹に虐待を続け、ヘイゼルが9歳の時、彼は逮捕される。容疑は児童虐待、麻薬所持、里親詐欺、(妻の)死体遺棄=故殺だ。
 トムは妻も幼い兄妹も殺す気でいた。が、グレゴリーが通報したお陰で死なずに済んだ。兄妹は子供の頃”遺伝子のゴミ溜め”と散々バカにされたが、兄のありったけの勇気が”セブリー家の肥溜め”であるトムをブタ箱に追いやったのだ。
 しかし、人生は悪い事ばかりではない。ヘイゼルが12歳の時、アイザックと妻のリリーは2人を養子にすると申し出た。やがて2人は老夫婦の確実な愛情の下で、ゆっくりと心の傷を癒やしていく。
 不都合な運命だが、アイザックの息子トムが、いや薬物依存の彼がいなかったら、アイザック夫婦に出会う事はなかったのだ。

 そんな過酷な環境ではあったが、グレゴリーはフィリップの娘シビルに恋をした。彼女も彼を好きになり、2人の関係は大人になって不倫という形で成就する。
 ”死ぬべきは彼女ではなく、トムであるべきだった。もし俺がセブリーと一緒になってたら、彼女は転落死する事はなかった”
 心の中で憎しみの炎を燻らせていたグレゴリーは、今やロス市警の警官になり、出所したばかりのトムを追っていた。


殺人予測と方程式

 一方で、アイザックの研究ファイルを処分するにもパスワードを解読出来ずに袋小路にいたヘイゼルだが、彼女が苦心して見つけた秘密の研究所から大事な極秘ファイルが盗み出されていた。犯人は(葬儀で一緒だった)アイザックの孫アレックスだった。
 ヨーロッパでフリーの写真家をしてるが、元々数学に精通してた彼は、祖父の研究に興味を持ち、ヘイゼルの秘密を知り抜いてた。つまり、人のいいヘイゼルはまんまとヒッピー風の色男に騙され、その上に恋心を芽生えさせてもいた。

 謎の政府機関の所長であるネリーは、アレックスを雇い、パスワードを解読し、アイザックの方程式を手にしてはいた。が謎は解けてはいない。故に、フィリップを巧みに説得し、方程式を調べさせる事に成功する。
 彼は(死亡事故の記事を収集する)晩年の父の事を考えていた。方程式自体は何ら意味はなく、その中の数字がLA広域圏内の”意図的な殺人予測”である事を突き止めた。
 更に方程式以の後には、アイザックが様々な点に丸をつけ、数列を書き込んだ地図が現れた。緑の丸は過去に起きた殺人事件で、記された数列と日時が全て合致していた。青色は未確認で、赤色は今日起きる筈の事件である。
 驚く事に、父は20分後の2つの殺人を場所と共に予測していた。事実、父が予測した場所と時間に弟のトムが死ぬ事になる。
 アイザック→シビル→トムと、遺書(手紙)にあった”(セブリー家の)3人が続けて死ぬ”とは本当だったのだ。だが、もう1つの殺人予測はどうなったのか?

 ”人が死ぬと判ってるに、なぜ止めない?”とフィリップは激怒するが、”方程式の効力と限界が解らなければ何も出来ない”とネリーは反論する。
 アイザックは(偶然を含む)”人殺し”と(必然的な)”殺人”を分けて考えた。前者は故意でない殺人も含まれるが、後者は全てが殺意を持って行われる。更に、方程式から自殺を除去しようとしたが、不可能だった。
 仮に自殺を人殺しとみなせば、アイザック自身の死も自身の方程式で予測されてた事になる。つまり、アイザックは自ら死を選んだ。
 フィリップは”自分も自殺するのでは?”と嫌な予感がした。事実、彼は薬の飲み過ぎで死にかけたが、かろうじて生き延びる。
 父の数学にも間違いがあったのだ。つまり、方程式は完璧ではなかった。父は理解してたのだ。自分の方程式が正しいとしても、ある種の不確実性は避けられない・・・

 一方で、アレックスに方程式を盗まれ、怒り心頭のヘイゼルは、アイザックが(殺害の)予測をしたユニオン駅へと向かうが、偶然そこにはアレックスがいた。更にその背後には、兄のグレゴリーがトムを尾行していた。
 実は、グレゴリーも生前のアイザックから手紙を受け取り、秘密の方程式を知っていたし、アイザックもまたグレゴリーの秘密の連続殺人に気付いていた。
 彼は予測された時間にトムを殺すつもりでいた。が、ホームには偶然にもアレックスとヘイゼルがトムを見つけていた。
 元里親のトムはグレゴリーとヘイゼルを交互に見つめ、奇妙に澄み切った表情を浮かべ・・・


最後に〜数学は思う程に美しくはない

 これ以上は完全なネタバレになるから伏せるが、これから後のエンディングが全く解せない。
 後半から急展開する謎解きは十分すぎる程に楽しめたが、最後のオチだけは全く拍子抜けだ。というより、後味の不足さとスカスカな幕切れだけが残ってしまった。

 少しでも数学をかじった事がある人なら、ヒルベルトの23問題を解く事がどれほど現実離れしてるかを理解するだろう。少なくとも、フリーのカメラマンであるアレックスが世紀の難問を解くなんて、小説とは言え、冗談もいやミステリーにも程がある。
 不幸なシンデレラ(ヘイゼル)が、最後の最後で白馬(タクシー)に乗った王子様(アレックス)に出会うという、幼稚なお姫様物語で幕を閉じたのは悲しい限りであり、数学と殺人予測方程式を散々ネタにしておいて・・・まさに、空回りと不足以外の何ものでもない。 
 一方で、”超弦理論”とか”カオス理論”とか振られても、あまりピーンと来なかったし、カオスはともかく超弦理論に関しては、ミステリーとは何の関係もなかった。

 アイザックという名前も今更にも感じたが、数学者や物理学者を題材にした謎解きモノとしては新鮮だっただけに、結局は安直なシンデレラ的展開で終わったのは、実に残念ではある。
 勿論、ミステリーに不足しがちなクオリティはノミネートに十分に値するものだったが、”暗号謎解き”と謳う割には、その要素は殆ど感じられなかった。
 一方で、老数学者が編み出した方程式が数々の殺人予測を見事的中させる辺りは、数学的未来予想図としてみてもユニークである。ただ、方程式が殺人事件の場所と時間を特定するカラクリを少しでも挿入して欲しかった。

 大学で映画を学んだ著者(ノバ・ジェイコブス)に、数学系ミステリーを期待したのは無理があったのかもしれない。
 因みに英題は”The Last Equation of IssacSevery”で直訳すれば、”アイザック・セブリーの最後の方程式”と、実に味気のないタイトルではある。
 私なら”セブリー家を追い詰めた謎の数式”とつけたであろう。事実、この小説に登場する方程式(実際は単なる数式)は結局は明らかにされず、張り巡らされた伏線も多くは回収されてはいない。
 つまり、セブリー家の悲劇は数式に含まれる謎を残したまま幕を閉じたのだから・・

 数学者が自身の研究に追い詰められ、自らの人生を破壊する事はよくある事だが、一族の長である老数学者がセブリー家を巻き込んでいく様は、よく描かれていただけに実に惜しくもある。
 結局、数学は著者が思う程に美しくはないし、完璧でもない。
 少なくとも数学者は、白馬に乗った王子様みたいにエレガントでもない。  



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