
この本で紹介するアパラチアン•トレイルはアメリカ東部の南はジョージア州から北のメイン州まで、14の州を貫く3500キロのロングトレイルだ。
2005年に約半年をかけ、著者の加藤則芳が歩き、そこで様々な人と出会い、体感したアメリカ。自然、文化、歴史から暮らしや人との交流、それに日本との比較や政治や宗教といった問題までをも描いた、原稿用紙1000枚を超える超ロングランのドキュメントです。
著者の加藤則芳氏は1994年に、ジョン•ミューア•トレイル340キロを歩いた。このトレイルでのテーマは自然保護そのものだった。そこには世界で最も優れた自然保護システムを持つ、アメリカの象徴的な存在があった。自然を楽しみ、知る為の原生自然のフィールドに作られた”理想のトレイル”だった。
加藤則芳にとって、このトレイルを歩く事は、ある意味”聖地巡礼”であり、自然との上手な関わり方と理想的なあり方を探る旅だったのだ。
アパラチアン•ロングトレイルとは
一方アパラチアン•トレイルは、ジョン•ミューア•トレイルとはまったく趣きが違った。ここアメリカ大陸の北東部には、南はアラバマ州から北はカナダのラブラドール地方まで伸びる長大なアパラチア山脈がある。
その山稜部に、ジョージア州からメイン州を貫く超ロングトレイルがアパラチアン•トレイルなのだ。
世界で最も古い地層とされるこの山脈の、特に南部は標高が低く、大部分が深い森に覆われる。この山域には原生自然の壮大な大自然は少ない。自然という観点から見れば、世界中にもっと優れたトレイルはいくらでもある。
にも拘らずこのアパラチアン•トレイルは、アメリカで最も有名なトレイルであり、全行程を踏破する事は、多くのハイカーにとって憧れである。
それ程までに彼らを惹き付けるものは何か?アメリカの歴史を振り返れば、その答えの1つが見えてくる。
17世紀に英国の清教徒を乗せたメイフラワー号が上陸したのを皮切りに、ヨーロッパからの移民が次々にアメリカ大陸に入植してきた。開発は西へ内陸と進んでいったが、その障壁となったのがこのアパラチア山脈だ。この山麓は開拓民の全てをはね返してきた。そして、このアパラチア山麓と共に、アメリカの西部開拓の歴史が始まったのだ。
アパラチアの麓には常に人々が押し寄せ、吹き溜った。そこに社会が形成され、文化が生まれ、欧州から持ち込まれた伝統文化が根付いていった。音楽をはじめ、ヨーロッパ本国で消え去った様々な文化が、今もこの山麓に栄え、残ってる。”アパラチアン”という響きを耳にしただけで、疼くものがあると多くのヨーロッパ系アメリカ人は言う。つまり、アパラチアン山麓は彼らにとって”心の故郷”なのだ。
それに、19世紀半ばの南北戦争や黒人奴隷時代の史蹟や遺跡もこの山麓に数多く残っている。つまり、ヨーロッパ系だけでなくアフリカ系アメリカンの歴史と文化もここに詰まってるのだ。故に多くのヨーロッパ系アメリカ人にとって、ここ”アパラチアン”を歩く事は、それこそが”聖地巡礼”なのだ。
ロングトレイルの最大の魅力とは?
”3500キロを半年かけ歩くという、距離と時間は並大抵ではない。それ程のリスクを乗り越え、これだけの偉業を沢山の人が成し遂げる事の理由と意味を、どうしても私は探りたかった。また政治的や宗教的に、アメリカで最も保守的とも言われるこのエリアの実相を知る事も私の大きなテーマだった。故に、私にとってのアパラチアン•トレイルは、溢れる程の内容が詰まった”好奇の宝箱”だったのだ”と、著者は熱く語る。
因みに、このアパラチアン•トレイルの大きな目玉である「グレート•スモーキー山岳国立公園(1934年設立)」だが。全米で最も人気の高い国立公園の1つで、”剥き出し”のこの深い森には様々な生態系が存在する。樹木だけでも130種を超える(欧州全土でも85種)。1500種の花、2000種のキノコ類、530種のコケ類、200種の鳥、60種を超える動物に80種の爬虫類。この公園全体で1万4000種の生き物が確認されてるのだ。
故にアパラチア山脈は世界最古の山脈として、多くのハイカーを惹きつけるのだ。
アパラチアン•ロングトレイルの最大の魅力は孤独感だ。その孤独感は寂寞感であり、自由という開放感でもある。苦しくとも辛くとも、歩く日々の充実感がある。毎日8時間かけて歩き、夜は大地の上に寝る。そして大地の事を考える。その大地の上に乗ってる自分の事を考える。人は歩く事で物事を考え、周囲を眺め思考を広げる。歩く事こそが、文明の始まりである。走る奴はバカと獣だけだ。
アパラチアンの地と宗教と
実際、このアパラチアン•トレイルを歩いてると、様々な宗教に出会い、考えさせられると著者は語る。つまり、アパラチアンは豊富な植物層だけでなく、多種多様な宗教の宝庫なのかもしれない。
宗教は難しい。信者が真面目で純粋であるほど、信教心が強い程にだ。故に信者の視野は狭くなり、そこに大きな矛盾がある。結果的に人を傷つけ、敵を作る。アメリカも移民同様に多様な宗教が蔓延り、質の悪い事に宗教と政治が深くつながってる。宗教が政治を取り込み、アメリカを支配する。信仰は純粋だ。その無垢さこそが、今そこにあるアメリカの危機なのだ。特に保守的なキリスト原理主義は危険そのものである。
因みに、ロードアイランド州とマサチューセッツ州だけが、唯一”政教分離”を守ってる。
このアパラチアの地に多いとされるキリスト教原理主義では、聖書が絶対であり、人がサルから進化したという理論は、人は神が作ったという(聖書の)創造論に相反するものとして絶対に認める事が出来ないとされる。事実、アメリカの55%が人は神が創ったと信じてる。
これに対し、クェ−カー教徒の基本理念は、質素•平等•誠実そして平和だ。19世紀には奴隷開放を積極的に行い、秩序を大切にし、個人より集団を大切にする。拝金や虚栄、優越を嫌い、アメリカのリベラルを支えてる。
実際に、加藤則芳氏がお世話になったハイカーの中には、キリスト教原理主義者がいた。彼らは普段はとても親切だという。しかし宗教の話になると、かなり獰猛に病的に狂信的なると。彼らの前では、宗教の話題は絶対にタブーなのだ。
これもアパラチアン•トレイルが”聖地巡礼の旅”という事と、深い繋がりがあるのかもしれない。私的には人間の欲と純朴さこそが、宗教心を生み出す根源だと考えてるが。加藤氏の宗教上の怖い体験は結構シリアスに映った。
読み終わって、一言
読み終わって出た言葉は、”全くご苦労さまです”の一言だった。
延々と6ヶ月以上も続く、超ロングトレイル•ドキュメント。編集部が少し予算をケチったのか、白黒写真が多く少し残念だが、それでも十二分に加藤氏の思いは伝わってきた。
両足首の捻挫、右膝痛、偏頭痛などに悩まされながらも、プロのハイカーとは言え、56歳の肉体には相当堪えたろうか。それに30キロ近くのバックパックを抱え、九州から北海道に相当する超ロングトレイルを完全踏破したのだから、その執念と渇望は想像に難い。
そんな過酷なアパラチアン•トレイルだが、結構な数の結構な年配の素人ハイカーたちが参戦してるのも興味深い。
自然をこよなく愛するアメリカ白人というのは、体力に絶対の自信を持ってるのか。それに、不思議と有色人種が少ない。この本の中でも3人の日本人スルーハイカーが登場するが。これも国民性というか、文化の違いというか。有色人種の中でも如何に日本人が自然と密接にあるかを物語る。
加藤氏のスプライトのがぶ飲みと大食いっぷりには結構楽しませてもらったが。
その加藤氏もこのロングトレイルの5年後の2010年にALSという難病を患い、その3年後に死去する。3500キロの完全踏破の無理が祟ったのではと勘繰らない訳でもないが、今から思うと自らの全てを掛けた大イベントだったのだ。
それでも加藤氏の187日間の最上級の濃密で濃厚なドラマは、私達日本人の心の中で永久に生き続ける。
最後に
ドロドロとした現実の中に生きてるからこそ、こういった無垢な生き方や純朴な冒険に見入ってしまう。
そういう自分も現実逃避型人間だが、こういったロングトレイルに挑戦するだけの、度胸も体力も精神力も覚悟もない。まさに、選ばれた人種のみが踏破できるイベントなのだ。
人と人との結びつき、人間と自然との結びつきがなければ、ネイチャー•トレイルは成り立たない。経済のみで地球が自転してると思ったら大間違いだ。
経済上の豊かさなんて、貧相で稚弱な即席の、他虐的自己満足に過ぎない。しかし、多くの人々はこの派手で薄っぺらな生理的富の欲求に支配される。
勿論、自然と向き合い、自然を愛し、自然と同化し、真の無垢な贅沢を追求するには、余りにも多くの困難と犠牲が付き纏う。
この本の中でも”艱難辛苦”という言葉が繰り返し登場するが。半端な渇望と覚悟では自然との共存なんて夢のまた夢だろう。またそういう思いを再認識させるドキュメントだ。
それでも、最終的に人類は自然に巻き込まれ、支配される運命にあろう。地球が太陽を中心に公転してる様に、人類も自然を中心に公転してる。その距離が近づく程、人類は自然に溶け込み、その一部となる。
ネイチャー•トレイルが生活の一部、人生の一部になる日もそう遠くはないだろう。又そう思わせる一冊であった。
しかし、こういったロングトレイルにも弊害が目立つと。多種多様な植物層を誇るアパラチアの雄大なる自然も、ある種の植物は日本人が持ち込むバクテリアでアッサリと死滅するらしい。自然というものは私達が思う以上にデリケートに出来てるんですね。以上追記です。
「アパラチアの雄大なる自然も、ある種の植物は日本人が持ち込むバクテリアでアッサリと死滅するらしい。」
北米大陸は元々「黄色人種(インディアン)」の土地。すでに白人によって「自然は死滅」しているとは言えませんか?
その大陸を、同じ「黄色人種」の日本人が「原状回復」した場合、「自然の死滅」とは言わないような気もします。
『メインの森』のHDソローに加藤さんは憧れたと聞きます。ソローは、人間と自然が共に破壊しあう過程で共存の道を探るというような事を書いてたと思います。
結局、インディアンも白人がもたらした文明のお陰でより優秀な狩人になったとも。
ああそれと、アパラチアの一部の森を死滅させてるのは、日本人が持ち込んだ世代が進化したアブラムシらしいです。
コメの意図がよくわからなくて、答えようがないです。悪しからず。
文明批判の本かと思いきや、そうでもなかったですか。自然も人がもたらした文明も何処かで共有する接点があるんですかね。
加藤氏のこの本で一番興味深かったのは、アパラチアの土地に住む保守的な人たちと原始キリスト教との関係でした。加藤氏も興味津々といった感じでしたが、最後は疑問のまま終ります。
アブラムシですが、現代人のバクテリアによって進化するんですかね。私が小さい頃のアブラムシって害虫というより、てんと虫のエサというイメージしかないです。