象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

数学は偶然の上に卵を生む(その2)〜カルダーノとガリレオが発見した偶然の確率

2025年03月07日 03時01分30秒 | 数学のお話

 前回「その1」では、”<たまたま>を科学する”というテーマで、偶然の特性であるランダムさの中に潜むバイアス(偏り)やバラツキやパターンをも科学の対象にし、更には、偶然に潜む錯覚や誤解までも科学の力で解明しようとした歴史を大まかに説明しました。
 「ドランカーズ・ウォーク」では、著者のR・ムロディナウ氏がロジャー・マリスの本塁打世界記録の分析や、伝説のファンド・マネージャーと讃えられたビル・ミラーの奇跡の成功例を挙げ、それらが偶然に過ぎない事を確率を使って示しました。

 著者が出した結論は”結果を元に人の行動を賞賛すべきではない”という事だが、元はと言えば<確率論の祖>と呼ばれる17世紀の天才数学者ヤコブ・ベルヌーイの名言である。更に著者は”我々は人をちゃんと見て、その人の人間性に目を向けるべきだ”とも説く。
 まさに、目から鱗的な格言だが、巷のレビューでは”成功するには場数を踏め”とか”数打ちゃ当たる”との声が多いが、本書の原題「酔っぱらいの歩行」を注意深く辿れば、実力も成功も結果も運次第であり、場数を数多く踏んでも主観的確率に行き着くだけである。
 つまり、知覚の弱い人が直感に頼れば失敗は見えてるし、能力や努力は成功の確率を増す1つの要素に過ぎない。つまり、偶然の科学は難題に対峙する事を厭わない数学者が生み出した創造の産物と言える。

 一方、”行動と結果の結びつきは我々が願うほど直接的ではなく、身に起こる事の多くが、技量・準備・勤勉の結果であるのと同じ程にランダムな要素の結果である。ただ、そうしたランダムさを予見するのは非常に困難であり、同じ様な理由で、未来を予測するのも容易ではない。故に、表面的解釈を超えて考える事が重要だ”との著者の言葉には、成功するか否かが重要ではなく、それ以上に未来に考えを巡らし、様々に予想・空想・俯瞰する思考と気概が大切な事を教えてくれる。

 因みに、本書は10つの章に分かれ、それぞれに主題と副題が用意され、更に10つ程のエピソードに分かれる。勿論、全てを隈なく紹介できる筈もないが、理解し難い所は自分なりに補足や事例を加えながら、全10話に分けて紹介したい。
 そこで今日は、天才数学者らが偶然を解読する上で遭遇してきた、不可思議でユニークな例を幾つか紹介する。


確率は足すべきか?掛けるべきか?

 独立した事象AとBがある時、AとBが同時に起きる確率はA×Bで、いずれか一方が起きる確率はA+Bとなる。
 例えば、ランダムな個人のDNAと犯行現場から採取されるDNA試料が一致する”偽陽性”の確率は(今日では)10億分の1と、まさに”偶然の一致”に近いが、DNA鑑定で検査員が間違う確率は約100分の1とされる。
 故に、DNAの鑑定の不確かさは、偶然の一致と検査員が間違う事が同時に起きる事は殆ど無視できるので、1/10億+1/100となり、約1%という人為的ミスの確率に近似できる。だが、多くの陪審員は1/10億にバイアスが掛かり”限りなく100%有罪”とみなすだろうが、確率は足すと掛けるでは、その結果が大きく異なる事を肝に銘じるべきだ。
 従って、DNA鑑定がアテにならないではなく、捜査が杜撰であれば、どんな精度の高いDNA鑑定も誤解や誤謬を生む。故に、裁判所がしばしDNA鑑定を容認しないのもこうした理由によるが、過ぎたDNA不過誤説には人為的ミスを誘発し易い事を留意する必要がある。

 因みに、足利事件(2016年)でのDNA鑑定は”1千人に1.244人の確率精度(=0.1244%)”で判定された。だが警察は、この様な精度の低いDNA鑑定を容疑者を排除する為でなく、犯人を特定する為に使った。つまり、警察がDNA鑑定の限界を把握した上で正しく用いてたならば、精度の低さはそれほど問題にはならなかったとされる。
 事実、人為的な捜査ミスによる誤逮捕や冤罪は後を絶たない。そこで、有名なコリンズ裁判(1968年)の逆転裁判劇を例に取る。


コリンズ裁判のケース

 ロサンゼルスで起きた強盗事件の裁判だが、目撃証人が犯人の幾つかの特徴を述べ、それを検察官が某大学の数学講師を召喚し、犯人の特徴の組合せが偶然ではあり得ない様に確率や統計を使い、”コリンズ夫妻は有罪である”と証言。
 結果、陪審員らはその確率統計に騙され、被告人を有罪としたが、その後、控訴審で逆転無罪となった有名な裁判である。
 先ず検察側が立てた数学講師だが、犯人の顔は見ていない為に、法廷にいる被告のコリンズ夫妻が犯人かは分からない。しかし彼は、犯人の特徴として①部分的に黄色の自動車を運転(1/10)②口ひげをつけた男(1/4)③顎髭をつけた黒人(1/10)④ポニーテールの女(1/10)⑤ブロンドの女(1/3)⑥車の中の異人種のカップル(1/1000)という6つのデータの確率に掛け算の規則を適用した。
 つまり、全ての確率を掛け合わせると、全ての特徴に一致するカップルの確率は1/1200万となる。故に検察側は、コリンズ夫妻が無実である確率は1/1200万と推測し、有罪を主張したが、この推測には直感的にも合理的にも初歩的な過ちがある。

 先ず直感的で言えば、”1/1200万の確率で有罪”と言うべきであろうし、勿論、この直感は明らかに間違っている。
 一方で、合理的に説明すれば、顎髭をつけた男は殆ど口髭を蓄えてるから、②と③はほぼ同じ特徴で、その確率は合わせても1/4よりずっと大きく、全ての確率の積は約1/100万とみなせる。また問題にすべきは、ランダムに選択されたカップルが(検察が提示した)容疑者の6つの特徴と一致する確率ではなく、これら全ての特徴に一致するカップルが罪を犯した確率である。
 つまり、この独立した2つの事象を混同した事により、大きな誤解と混乱が生じた。
 そこで、犯行現場に隣接する地域の人口は数百万人程だから、特徴が一致するカップルは数百万人×1/100万とみなせ、2組または3組いると推測できる。
 従って、その地域で特徴が一致するカップルが罪を犯した確率は1/2または1/3。これはもはや、理に適った嫌疑とは言えず、最高裁はコリンズ夫妻の有罪を覆し、無罪を宣告した。

 今日の裁判で確率や統計学を使う事は、依然として議論の多い問題である。事実、英国では統計学を駆使した弁論自体を禁止している。また、カリフォルニア州最高裁判所はコリンズ事件により”数学裁判”を嘲笑したが、逆に”より適切な数学の適用”への可能性を残した。事実、こうした数学的議論の重要性は、DNA鑑定を初め、多くの裁判所で見直されては来ている。 
 だが残念な事に、法律家や裁判官や陪審員側の理解が一向に進まない。”知能や知覚が低い”とか”数学脳がない”と言えばそれまでだが、南加大で確率と法律を教えるトーマス・ライオン氏は”確率を選択する法律課の学生は殆どいないし、確率が重要だと感じてる法律家も殆どいない”と嘆く様に、法律においてもランダムネスの理解が見えざる真実の層を暴いてくれるが、それはその層を探り出すツールを理解し、手にしてる者に対してだけである。

 では、そうしたツールを研究した最初の人間(数学者)を紹介する。


ギャンブルを初めて理論化した男

 カルダーノ(伊、1501~76)と言えば、幾度となくガロアの記事で紹介したが、代数学の3次方程式の解法である”カルダーノの公式”を虚数を使って提唱した史上初の数学者として有名だ。本業は医者で、世界で初めてチフスの臨床記録を著し、占星術師や賭博師などでも知られる哲学者でもあった。

 そのカルダーノだが、医師の免許をとったものの「医師の異なる見解」との論文で”ミラノの医者はヤブ医者だ”と断じ、医師会から追放を受ける。その後、得意の賭博で貧しい生計を食い繋ぎ、「偶然のゲームに関する書」を著したものの、ギャンブルの秘技が漏れるのを危惧し、出版を躊躇ったとされる。
 これは、効率的なイカサマの方法として確率論に触れた書で”ギャンブラーにとって全くギャンブルをしない事が最大の利益となる”との名言を残した。そして、それは世界初のランダムネス理論に関する書でもあったのだ。
 当時は、サイコロ賭博やカードゲームの様な不確実なプロセスがとる偶然の枠組みについて、論理的な分析をなし得たものは(カルダーノ以外には)誰一人いなかった。今では、こうしたランダムさに関する彼の考察は「標本空間の法則」との原理に纏められている。

 因みに、ある試行にて起こり得る全ての結果(標本点)からなる集合を”標本空間”と呼び、集合Ωとして定式化する。サイコロ投げで言えば、Ω={1,2,3,4,5,6}となる。但し、標本空間は試行の種類に応じ、有限や無限、可算や非可算など様々な集合の形をとる。
 つまり、標本空間とは、ランダムな世界で起こる事象(結果)を空間の中の点として考える事が出来るし、複雑な場合は連続体の様に無限に広がる事もあるだろう。
 こうした”数(点)の集合が空間を形成しうる”とのカルダーノの概念は、天才デカルトの登場より1世紀も早く定式化され、”(蓋然的前提として)ランダムさが均一に広がる確率空間であれば、サイコロの目は平等に現れる”というものであった。

 一方で、2枚のコイン投げで言えば、確率の研究で有名だった18世紀の数学者ダランベールは”表が出る確率は0か1か2の何れかだから、其々の確率は1/3だ”と推論した。
 だが、分析すべき結果は”表が出る数”ではなく、(面,面)(表,裏)(裏,表)(裏,裏)という4つの事象なのだ。故に、この時の標本空間は{(表,表)(表,裏)(裏,表)(裏,裏)}となり、其々の事象となる確率は1/4が正解である。
 つまり、表の数が0か2になる確率は1/4だが、1になる確率は1/2。故に、カルダーノがダランベール2人を相手に表1枚に賭ければ半分は負けるだろうが、残り半分なら掛け金は3倍になって返ってきただろう。
 貧窮してた16世紀の少年がこうした単純な賭け事を、数学嫌いな今日の現代人に申し出れば、学費を稼ぐ大いなるチャンスになったろう。但し、全ての結果が等しい蓋然性(物事が起こる可能性)を有する前提での「カルダーノの法則」だが、現実のランダムさはそんな単純ではない事を付け加えておく。


呪文や迷信から科学革命へ

 その後のカルダーノだが、「医師の異なる見解」との論文を「広く知られる医療の悪習について」と、判り易いアカデミックなタイトルにして出版した本は大ヒットし、更には内密に治療していた修道院長が偶然にも回復した事から、医師会の復帰を認められ、何と会長にまで登りつめた。更に、次々と出す本は売れ捲り、50代前半には絶頂期を迎えたが、幸運は長くは続かない。
 カルダーノを大きく落ち込ませたのは、彼の支えとなってきた子供たちだ。男好きの長女キアラは弟(長男)ジョバンニを誘惑して子を孕んだが、中絶はしたものの不妊症となる。一方、ジョバンニは医者にはなるも詐欺を繰り返しては、悪辣な犯罪者に成り下がり、牢獄で処刑された。次男も子供の頃、動物虐待に耽り、拷問師や詐欺の内職で人生を潰す。
 晩年、財力と評判が低下した事と男色と近親相姦で告発され、医師会や学問の世界からも追放されたカルダーノは、最後にはボロ切れの様な人生で幕を閉じた。
 因みに、「偶然のゲームに関する書」は彼の死後80年程が過ぎた1663年に出版されたが、その頃には彼の解析手法は模倣され、より優れた著が登場してたと言うから、最後までツキに見放された人生だったとも言える。

 もし、カルダーノの時代に賭け師らが偶然についての彼の研究を理解してたら、腕の悪い胴元らを相手にし、がっぽり稼ぐ事もできただろう。今日でも16世紀のカルダーノが「猿にもわかるギャンブル術」なんて本を書けば、富と名声を勝ち取れたかも知れない。
 だが当時、彼の研究はさほど話題にはならなかった。その理由の1つに、代数学の適切な記号体系が存在したかった事にある。もう1つは、当時は数学的計算よりも神秘的な呪文が重視されていた。つまり、自然の中に秩序を見出そうとはせず、出来事を数学的に説明する方法を編みだそうとはしない。
 故に、出来事にランダムさがどの様に作用するか?といった理論が理解されないのも必然である。

 もし、カルダーノが数十年後に生まれてたら、その状況は一変してた筈だ。というのも、その数十年後に”科学革命”という思想と信念の歴史的大変革がヨーロッパ全土で起きたからだ。
 当時のヨーロッパでは、神秘的な迷信や呪文が思想と信念の中核をなしていた。事実、カルト信仰の様に、こうした奇怪な迷信を信じる者は未だに多く存在する。
 今日は理解や関心さえあれば、ランダムな結果や行動の有効性を論駁(ろんばく)する為の必要な道具がある時代だ。だが、カルダーノの時代は賭け事に勝つと、その経験を数学的に分析するではなく、神様に感謝したり、ゲンを担いだりした。
 事実、カルダーノ自身も負けが連続して起きるのは”運が嫌ってるからでサイコロを思い切り振れば改善できる”と信じていた。しかし、運が全て手首の動きで決まるのなら、数学も確率も統計学も何も要らない。つまり、彼も根っからのギャンブラーだったのだ。


「ガリレオの原理」とギャンブル論

 科学革命の転換点とみなされるその瞬間は、カルダーノが死んだ僅か7年後の1583年に起きた。ピサ大学の若き学生だったガリレオはは聖堂の前に腰を下ろし、礼拝に耳を傾けるでなく、目の前の大きなシャンデリアの揺れに目を凝らした。自分の脈拍を時計代わりに使い、小さな揺れも大きな揺れも一揺れするに掛かる時間は同じらしい事に気付いたのだ。
 この「振り子の法則」は単純ではあるが、若き学生の観察が正確かつ実践的である事を示していた。が、少なくとも曖昧な迷信でも神秘的呪文でもない。
 更にガリレオは、「サイコロについての考察」というギャンブルに関する小論を書いた。それは、”3個のサイコロを投げた時、なぜ10が9より多く出るのか?”といったトスカーナ大公の疑問の依頼だった。”賭け事をやめる事が先だ”と暗に考えたガリレオは、雇い主の単純な賭け事には熱心ではなかったが、首にならない為に仕方なく研究を始める。

 仮に、サイコロ1個ならどの目の確率も1/6だが、サイコロが2つなら、足して得られる目が出る確率は一定ではない。例えば、合計が2になる確率は1/36=(1/6)×(1/6)となるが、合計が3の確率は、事象が(1,2)と(2,1)の2つで2倍となる。
 さてここから本題だが、直感に従えば、3個のサイコロの合計が等しい頻度で10と9になると考えたくもなる。それは、10も9も6通りの出方があるからだ。9に関しては(621)(531)(522)(441)(432)(333)で、10に関しては(631)(621)(541)(532)(442)(433)であり、「カルダーノの法則」に従えば、10も9も同じ頻度で現れる筈だ。
 でもなぜ、どちらか一方の確率が大きくなるのだろう?

 既に述べた様に、「カルダノの法則」は”蓋然性(事象が起こる可能性)が等しい”との前提であり、上の組合せリストはそう(単純)ではない。
 例えば、6と3と1が出る場合は(333)という結果より蓋然性が6倍大きく、これは3が3つ出る場合(事象)は1通りだが、(631)は(6,3,1)(6,1,3)(3,6,1)(3,1,6)(1,6,3)(1,3,6)の6(=3!)通りあるからだ。
 つまり、以上の様に分解すれば、全ての結果の蓋然性が等しくなり、カルダーノの「標本空間の法則」が使える事が判る。故に、上に挙げたリストを分解すれば、10を出すには27通りあるが、9を出すには25通りとなる。
 そこでガリレオは、”3個のサイコロで10を出す確率は9を出す確率よりも27/25=1.08倍大きい”と結論づけた。故に、”10が9より多く出る”事が数学により証明された訳だ。

 少し長くなったので、今日はここまでにします。次回は、この「ガリレオの原理」から「パスカルの原理」へと展開する確率のお話をしたいと思います。

 


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