「前半」では長々と、ジョン・ナッシュJrのゲーム理論の基本について述べました。後半では展開ゲームと囚人のジレンマについて詳しく述べるつもりでしたが、(少し脱線して)果たしてナッシュ博士は”キチガイに陥ったのか?”を検証したいと思う。
「ビューティフル・マインド」のモデルとなったナッシュも例外じゃないが、多くの人は(天才と聞けば)彼が遺した実績(特に、ナッシュの”リーマン多様体”の「埋め込み定理」)を理解する事もなく、映画やドラマや噂で聞いたスキャンダルを真に受け、”天才=キチガイ”だと決めつけるであろうか。
事実、ナッシュの深刻な精神疾患を救った妻アリシアの愛が、この映画ではメインに描かれてる様な気がした。ナッシュはこれを”愛の方程式”と名付けたが、史実とはかけ離れている印象を受けなくもない。
勿論、妻の愛と献身はナッシュを救った必要条件の1つではある。が、それだけで彼が立ち直った筈もないし、彼を取り巻く様々な要素が結集した結果とも言える。
だが、数学の世界には十分条件というものがある。つまり、ナッシュ自身、立ち直るチャンスを冷静に時間をかけて伺っていたとしたら・・・
彼が、自身が崩れていく過程と原因を冷静に分析し考察してたとしたら?
天才とキチガイは紙一重?
ナッシュは本当にキチガイに陥ったのか?
いや、"天才とキチガイは紙一重”は本当なのか?
私はそうは思わない。
勿論、我ら凡人もちょっとした事で精神が病む事があるように、天才もその超越した思考が故に、天才の次元で精神を病むのは当然の事であり、ごく自然の事でもある。
つまり(極論を言えばだが)バカがキチガイになるのと、天才が精神を病むのには雲泥、いや天と地の差がある。
前者は真の意味でキチガイで殺人鬼や暴君になったりなるが、後者は言動がおかしくなるだけで、暴力や暴動など民間人に直接的な危害を加えるケースは少ない(多分)。
言い換えれば、天才とキチガイは別物で、”バカとキチガイは紙一重”と定義できなくもない。
勿論、”天才とキチガイは紙一重”とはバカにとっては有り難いだろうが、天才にとってはこれほどの誤解と侮辱もない。
「前半」でも書いたが、天才数学者ナッシュの場合は自身が精神を病む原因と過程を冷静に認識・分析していました。事実、妻アリシアの献身や周囲の寛容の姿勢もあるが、医師から強制的に処方されてた精神病薬を辞めた辺りから少しずつ快復に向かう。
更に、天才的思考が生み出す副産物である妄想や幻聴を注意深く時間を掛けて排除する事で総合失調症という難病を克服した。一方で、奇行や放蕩を繰り返す事で、精神を病んだ自分を巧くコントロールしていたのではないだろうか。
つまり、天才はキチガイに対する対処も天才的だとも言える。
”20世紀最高の知性”と称されたカントールも晩年は精神を病んだとされるが、それに対しても疑問の声が出ている。
ナッシュを庇うようだが、ナッシュ均衡を理解する程に、彼が確立した(非協力)ゲーム理論を知る程に、やはりナッシュはキチガイにはなり得なかったと確信できる。
因みに、太刀川英輔著の「進化思考―生き残るコンセプトをつくる”変異と適応”」では、天才を”孤独な狂人”とみなしてる様に、天才と狂人を混同してる様に思われる。がしかし、脳科学的視点で”天才とキチガイ”にメスを入れたのはユニークにも映る。
しかし私からすれば、天才とは”努力を惜しまぬ秀才”を超越した”孤独な超人”なのである。その超人性が結晶化し、柔軟性や社会適応性を失った状態をキチガイとみなすのなら、それは大きな勘違いであろう。
故に、少なくとも天才は狂人にはなりえない。狂人と超人は明らかに別物である。むしろ、”努力を惜しまぬ凡人”こそが人のやらない事をやろうと企み、凡人を変異させ、”孤独な狂人=キチガイ”になり果てるのかもしれない。
バカとキチガイはもっと紙一重?
(例外もあるだろうが)つまり、天才は頭が狂っても狂人には成り得ないし、一方で我ら凡人やバカは一度狂えば、簡単に狂人に成り果てる。
プーチンやトランプや暴君ネロ帝を見れば明らかだが、天才を野放しにするよりもバカを野放しにする方が人類には危険な様にも思える。
だが凡人から見れば、天才ほど憎く奇怪な生き物の様に感じるし、バカほど可愛く従順な生き物のようにも映る。
故に、”天才とキチガイは紙一重”という言葉は、我ら凡人が自己満足の為に生み出したスラングとも言えなくもない。
もしそうした諺は本当なら、”バカとキチガイはもっと紙一重”という諺があってもおかしくはない。天才から言わせれば、お前ら凡人だって簡単に狂喜化するじゃないかって言いたいだろう。
この様に、我ら大衆は天才だけをやり玉に挙げ、バカ(や凡人)をかばう癖がある。
それは我々凡人の思考では天才の偉業を等身大に理解できないし、或いは理解しようとも思わないからであり、天才の奇行を許す寛容の精神があれば、天才が奇行に走る事を防ぐ事もできなくはない筈だ。
事実、ナッシュはそういう環境の元で精神的疾患を克服した。
故に、これだけの大偉業を残した天才たちを”キチガイと紙一重”という事で一括にするのも明らかに矛盾があり、それに酷なような気がする。
つまり、天才の苦悩は天才にしか解らないし、一方でバカ(や凡人)の苦悩は大衆には十分に理解できる。天才がバカに簡単に騙されるのもそのせいだろうか。
欲を言えば、適応力や柔軟性のある天才型思考が理想だが、(超越したままで)孤立し結晶化しやすいのも天才型思考である。が故に、狂人化しやすい流動的で変異型思考に淘汰されるのかもしれない。
そういう意味では、天才型と秀才型の中間にある思考が理想かもだが、我ら大衆の中にそんな融通が効く便利な思考を持つ人種は殆ど皆無だろう。
しかし少なくとも、”天才=キチガイ”という短絡な視点で天才を捉えるべきではないし、”バカ=キチガイ”と見下すべきでもない。
そういう私も凡人の割には、放蕩の癖があり、周囲からは”変わってる”とバカにされる。
思考のバランスを保つ為に自然とそうなってるのだが、周囲から見れば奇行に映るのだろうか。
そういう私から見れば、隣組の世話や冠婚葬祭の方がずっと奇怪な言動や狂人的で不可解な行動に映るのだが・・・
最後に〜ナッシュの天才的偉業
そこで、ナッシュの天才の本質である「ナッシュの埋め込み定理」を簡単に紹介して終わりにします。
元々ナッシュは、(ノイマンとは違い)ゲーム理論が専門ではなく、微分幾何学や偏微分方程式が専門であった。
故に、ゲーム理論は”特につまらないもの”であったし、この埋め込み定理こそがナッシュの天才の本質であり、精神を狂わせたきっかけとも言える。
この定理では、”全てのリーマン多様体はユークリッド空間(曲率がゼロの空間)の中へ等長に埋め込む事ができる”とナッシュは主張する。
”等長埋め込み”とは、全ての道の長さ(距離)が保存される写像(単射)の事で、紙(のページ)を引き伸ばしたり破る事なしに折り曲げると、ページのユークリッド空間への”等長写像”(等距離写像)になる。つまり、ページに描かれた曲線はページが折り曲げられても同じ長さになる。
埋め込み定理は2つに分かれ、第一の定理は連続微分可能な第一の定理は、連続微分可能なC1級の埋め込みに対するもので、第二の定理は解析的な埋め込みと、3≤k≤∞に対し、Ck級の滑らかさを持つ埋め込みに関するものである。
因みに、関数fが連続的微分可能とは、fに(1階の)導関数f’が存在し、かつf’が連続関数なる事をいい、C1級の関数と呼ぶ。同様に自然数kにて、fのk階導関数f⁽ᵏ⁾が存在し連続である時、fはk階連続的微分可能であり、fはCk級の関数となる。この様に、関数には階数に応じて”なめらかさ”を分類する事に注意ですね。
また、これらの2つの定理は互いに非常に異なり、第一の定理は非常に容易に証明でき、非常に反直感的な結果を導く。が、第二の定理の証明は非常に技巧的であるが、結果はそれほど直感には反しない。
因みにナッシュは、1950年に非協力ゲームに関する博士論文(ナッシュ均衡の定義)を発表するが、数学的に貧弱すぎると思い、リーマン多様体の”埋め込み定理”に関する論文も用意していた。C1定理は1954年、Ck定理は1956年に出版され、実解析的な定理は1966年に発表された。
そこで、天才ナッシュが発見した2つの定理の詳細と厳密な証明は勿論省くが、この埋め込み定理は、(大域的には)”多様体全体がRⁿの中へ埋め込まれる”定理と言える。局所的な埋め込み定理では、多様体の座標近傍にて陰関数定理を用いて簡単に証明できると。
一方で、大域的な埋め込み定理の証明は、陰関数定理のナッシュによる大きな一般化やナッシュ=モーザーの定理や、前提条件を持つニュートン法に依存する。
埋め込み問題でのナッシュの解法の基本アイデアは、偏微分方程式系の解の存在を証明する為にニュートン法を使う事にある。が、標準的なニュートン法を適用すると発散し、うまくいかない。そこで彼はニュートンの逐次近似を収束させる為に、畳み込みにより定義されたあるトリックを用いる。
つまり、このテクニックこそが解をもたらすという事実こそが、ナッシュの天才なる所以でもある。
一方で、ナッシュが天才の全てを注ごこんだ”リーマン多様体”の研究ですが、そもそもリーマン多様体の起源は、1828年にカール・フリードリヒ・ガウスが証明した「驚異の定理」にまでさかのぼる。
この定理では、”曲面の(ガウス)曲率が3次元空間にどの様に埋め込まれるかに依存せず、曲面上で測定(計量)される距離や角度などの計量テンソルのみに依存する”というものです。
ガウスの弟子リーマンは、このガウスの定理を”多様体”と呼ぶ高次元空間にまで拡張します。但し、計量テンソルや多様体の定義も大まかに説明する必要がありますが、長くなるので、ここでは省きます。
因みに、アインシュタインが相対性理論にてリーマン多様体の考え方を利用してるのは有名な話です。
以上、大まかにナッシュの天才的本質を述べましたが、天才は天才以外にはなり得ないというのが伺えますね。
「ビューティフル・マインド」では、こういう所も少しでいいから紹介してほしかったです。
リーマン予想の研究で精神を病んだ第一級の数学者は少なくありません。しかし、リーマンの領域にまで近づくという事が如何に天才的で超人的であるかというのも、理解できなくもない。
それでも、ナッシュの天才的知性を”キチガイと紙一重”と呼べるのだろうか・・・
が、やはり天才で変人は多いと思います。または天才ではあるけれど、日常的には馬鹿である人もいると思います。実は私の周囲にも該当する人がいますから、これは確信を持って言えます。
が、これとは全く違う真正バカも世の中には多いということだと思います。真正バカにはつける薬がありませんが、天才変じてバカに見えてしまう人にはつける薬があるというか、それほど困るということはないと言えるかもしれません。
真正バカは転象さんの言われる通り、人に迷惑をかけます。
が、天才でありながら、常識のないが故に馬鹿に見えてしまう人は、馬鹿に見えてしまう時もあるが、実は優れた知能を持っているということだと思います。
天才とキチガイは紙一重という言葉は、必ずしも蔑んだ言葉でもないかもしれません。むしろ彼は天才だということを遠回しに言っているだけかもしれませんから。
ビコさんらしいですね。
真性バカにはつける薬はないが、天才には少なくともつける薬はある。
言われる通り、天才には奇人や変人が多く、が故に日常的に見ればバカに見える。
一方で、日常的に賢く見える人も実はバカだったりするし、そういうのが多い。ワイドショーのコメンターや専門家らはその典型ですね。
ただ天才にも次元があり、真の天才を知るほどに天才とキチガイの境界が曖昧になる。
因みに、日本人には変態が多く、欧米人には変人が多いとされる。これは欧米に天才や奇才が多い事の証のようにも感じますね。
小難しい記事にコメント有り難うです。
ノーベル賞もこの時期の幅広い業績に対して贈られたものだとされます。
ただ、この幅広く知られる天才的理論が、狂気との境目を生きた人間から出てきた事も興味深い。
病気が始まったのは30歳の時で、正式には妄想型精神分裂症とされ、精神病の中でも最も不可解な難病とされました。
以降、40年に渡り、<プリンストンの幽霊>と呼ばれながら人生を過ごします。
天才が持つ正気と狂気そして閃き。一方では悲しみと驚き、そして晩年は喜びに満ちた生涯でした。
天才数学者の人生と運命とは、凡人とは異なる異質な閃光を放ち続ける。
とても狂気とかキチガイとかでは言い表せない日常を逸脱した異次元の輝き。そういうものを含め天才と定義できるのではないでしょうか。
それらの境界を彷徨ったナッシュの奇怪な運命と波乱万丈なる生き様。
ナッシュの天才の本質を見事に抉ってますね。
一方で、ナッシュの”第二の定理”にて実解析的な埋め込みを発表したのが38歳の時ですから、闘病の真っ只中で書いた論文なんですよ。
故に、ナッシュは狂気の縁にいながらも、狂人いやキチガイではなかった。冷静に自分の病気を分析し、上手く距離を置きながら、難題と難病と対峙したと言えます。
つまり、天才の狂気に対する対処も超人的なんですよね。
お陰で、コメントとても参考になりました。
多分この頃からナッシュは、リーマンの呪いに神経を悩まされるようになるのだろうな。
でもナッシュの超人的な所は、狂気の淵にいながら狂人にはならず、難題を解き明かした。
つまり等長写像と同様に、天才的思考が歪むことはなかったんだね。
たぶん凡人なら、リーマン多様体の入り口で思考が歪み、簡単に発狂するだろうよ。バカなら狂気に至る前に狂人になる。
ナッシュという天才の驚異とは、そういう所だろうな。
等長写像と多様体と等長埋め込みの流れは、そのままガウス→リーマン→ナッシュと見事に継承されています。
ここら辺は全くの説明不足で、何か機会があったら記事にしたいと思います。
そういう私もリーマン多様体の所で頭が混乱しつつありますが、こうして凡人は簡単にキチガイになるんでしょうね。