”死に急ぐ若者”という言葉があるが、最終回の矢吹ジョーは”死に急ぎすぎた”若者の様に思えた。
これを美学と見るか、残酷と見るか、いや単にマンガの世界と開き直るかは、人とそれぞれだろう。勿論、”濃密なヒロイズム”と沢木耕太郎さん風に締め括る事も出来なくはない。
ジョーと共に生きた70〜80年代。特に昭和の経済成長期の真っ只中、燃え尽きるまで何かに向かって走り続けた時代。
生と死の境界を搖れ動き、何かを達観した様な澄んだ瞳を持つ”完璧な青年”として描かれてるジョーだが、”戦いの場にこそ生命の燃焼の瞬間がある”という自虐に近いヒロイズムが、当時のサラリーマン社会や昭和の世代を写し出してた様に思える。
まさに、「あしたのジョー2」はそんな昭和のヒロイズムに支配されたアニメとも言えるのかもしれない。
更に、世代を超えて我ら日本人の全てを飲み込んでしまう、末恐ろしい得体のしれない濃密なエゴイズムがこのアニメには存在する。
「少年マガジン」連載中から社会的反響は大きく、力石徹が死んだ時には(架空の人物でありながら)、講談社講堂にて葬儀が行われた。また、1970年のよど号ハイジャック事件では、犯人が”我々は明日のジョーである”との声明を残した。更に、辰吉丈一郎をはじめ現実のボクシング界にも大きな影響を与えた。
「あしたのジョー」はその社会的反響の大きさから、”戦後最大のヒットマンガ”の1つに数えられた(ウィキ)。
因みに、沢木耕太郎氏も「銀河を渡る」の中で、あしたのジョーを読んで、ボクシングやスポーツの見方を教えられたと語っている。
「あしたのジョー2」と自虐的ヒロイズム
原作の梶原一騎が語るように、同時代のメガヒットであった「巨人の星」のスポ根漫画とは一線を画した。が、私には矢吹ジョー(丈)の向こう見ずで一辺倒なキャラが好きになれなかった。故に、今でも「あしたのジョー」はあまり見る気にはなれないし、私にとっての矢吹ジョーとは、その続編である「あしたのジョー2」(1980~1981)に他ならない。
ただ、この続編を当時見てたかというとそうでもない。世界王者ホセに破れたという結果だけは知ってはいたが、「巨人の星」同様にスポ根系には食傷気味だったので、敬遠していた所もある。
それから約40年が経ち、アマプラで放送されてた事もあり、偶然にも”完成された”矢吹丈の虜になってしまう。
40年の年月とは恐ろしいもので、無鉄砲なだけの未熟で単調なガキに思えた矢吹ジョーが”完熟した大人”に思えた。
(設定上では)18~21歳と予想されるジョーを描いたのは、当時40を超えてた故・梶原一騎氏やちばてつや氏であり、完成された大人として描かれても、当然ではある。
勿論、漫画(アニメ)上での物語だから、原作に忠実に描こうが(そうでなかろうが)実在する人物はいない訳で、モデルになった人物は色々と噂はされてるが、やはり力石徹は力石であり、矢吹ジョーはやはり矢吹丈である。少なくとも、山崎照朝でも青木勝利でもない。
つまり、原作の梶原一輝が二人を誕生させ、作画のちばてつやが二人に生命を吹き込んだ。故に、力石徹と矢吹ジョーは梶原とちばが作り上げた昭和の化身の様にも思えてくる。
ただ、40年ぶりに見た「あしたのジョー2」で不思議と惹かれたのが、(白木財閥の娘であり)崩れゆくジョーを最後には愛してしまう白木葉子と、それにルポライターの須賀清である。
前者は、当時はあの不自然?な髪型が滑稽に思えたが、今に見れば実に洗練された才女にも見えてくる。事実、頭のいい女性がボクシングに惹かれるのはよくある事で、世界フライ級王者・大場政夫を女手1つで世界王者に育てた長野ハルさんとダブってしまう。
勿論、タイプも年齢も違うが、ジョーも心の中では(大場同様に)葉子をお姉さんの様に慕ってたのかもしれない。事実、彼女はジョーよりも約3~5歳年上の設定である。
後者は、「敗れざる人々」の沢木耕太郎さんとイメージがダブる。彼が登場した辺りから、アニメにドキュメントな重厚さが加わり、ドラマが現実を帯びてくる。事実、沢木氏自らプロモートした東洋Jrミドル級王者のカシアス内藤は、最後には壮絶なKO負けを喫する。
一方で、矢吹をジョーたらしめてるのは、声優のあおい輝彦に他ならない。もっと言えば、ジョーは”あおい輝彦の声そのもの”だと私は思っている。
あの声こそが矢吹ジョーの魂の叫びの本質でもあり、あの叫び声を聞く度に私の心は興奮し、躍動してしまう。
ただ、矢吹ジョーの最後は、幾ら”白い灰になる”と言っても、(沢木氏の言う)濃密というより自虐的ヒロイズムに偏り過ぎてる様にも思えた。
”僅か20そこらの人生を、たかがボクシングで潰されて溜まるかってもんだ”っていうもう1人のジョーの叫びがここまで聞こえてきそうだ。
一方で、”完全燃焼なんて軽々しく叫ぶもんじゃない。人生とは最後まで生き抜いてこそ意味があるんだ、ジョー”という丹下段平の説教も聞こえなくもない。
ヒロイズムの考察
そういう事で、最終回では世界統一王者ホセ・メンドウサに判定で敗れ、ジョーの望み通り、”白い灰”になってのエンディングとなるが、アニメ(いや昭和的)とは言え、どうも自虐的エゴイズムに映る。
今は、勝利や戦いに全てを賭けて走り続けた輝かしい昭和ではなく、(その結果)全てが敗北に転落した悲しい令和の時代である。
そこで、”自虐的ヒロイズム”から解き放たれた、「あしたのジョー2」のもう一つエンディングを考えてみたい。
タラレバという言葉は好きじゃないが、梶原一騎の原作では(ラストシーンは)白い灰になったままうなだれるジョーではなく、白木邸で静かに余生を送るジョーとそれを見守る葉子の姿だったとされる。一方で(実弟の真樹日佐夫によれば)、パンチドランカーとなったカーロス・リベラと共に療養所で笑顔で戯れてるジョーの姿とされる。
しかし、ちばてつや氏は、”ここまでやってきて<ケンカに勝った>はない。ラスト変えます”と梶原に電話で伝えたとされる。勿論、梶原氏はカンカンだったそうだが、その結果出来上がったのが”真っ白に燃え尽きた”シーンである。
ただこれに関しては、梶原氏に同意である。
そこで、最終回(第47回)を自分なりにアレンジしてみる。
アニメ(漫画も)でも、序盤にホセにフルボコにされる矢吹だが、5Rと6Rにダウンを奪って盛り返す。しかし以降は、パンチドランカー症状が明確に現れ、ホセの一方的な展開になるも、最終回に矢吹のクロスカウンターとトリプルクロスが炸裂し、ホセを2度ダウンさせる。が、結局は重度のドランカー状態にあった矢吹に対し、全般的に試合を支配していたホセの判定勝ちとなる。
エンディングには色んな意見がある事は承知である。桜が散る様に敗れ去るのも、男の美学ではある。事実、20近いプランが用意されてたという。
しかし、僅か20歳そこそこで灰に至るのは若き特攻兵士を再現してる様で、見るに耐えない。いや、一方的に殴られる矢吹が(感動的ヒロイズムというより)単調な自虐的エゴイズムに思えた。いや、40年以上も経ってるからそう思えるのだろうか。
勿論、最後には(ここまで来たら)ジョーに勝ってほしいという、シリアスなヒロイズムを夢見る日本人も多いだろう。
しかし、有終の美が美しさの全てではない。美しさや感動には色んな種類や次元がある様に、終わり方にも色んな終わり方がある。
そこで、私なりのジョーの最後、いやヒロイズムを紹介する。
もう一つのエンディング
6Rまではアニメ通りだが、7Rに入り、矢吹にパンチドランカーの症状が明確に現れた時、丹下は言葉を失う。
”このままじゃ、白い灰になる前に殺されてしまう。若干20そこそこの若造をボクシング如きで潰されてたまるか”
これといった抵抗もなく、一方的に殴られ続けるジョーを見て、丹下はタオルを握りしめ、リング内に投げようとすると、白木葉子が止めに入る。
”ここは矢吹君の言う通りにして!彼の死に場所はここ以外にはないのよ。最後だけは彼の好きなようにさせて頂戴”
丹下は頷いたフリをする。
”判った。もう1R様子を見よう。その後でオレが判断する。言っとくが、ジョーはアンタの玩具じゃない。オレの大切なもう1人の自分なんだ”
7Rが終わり、矢吹の右目は殆ど視界を失っていた。
”ジョー、今のままでは白い灰にすらなれない。両目潰されたら、ボクシングだけでなく全てが終わりだ。死に急ぐ若者はゴマンと見てきたし、人生はボクシングほど単純じゃねえ。8Rの展開次第ではタオルを投げる”
矢吹はブチ切れる。
”もしそんな事してみろ!オレはアンタをぶっ殺す。いいな判ったか、絶対にタオルは投げるな!判ったか、この老いぼれ野郎。オレにはボクシングが全てなんだ。死ぬなら、このリングの上でホセと闘って全て終りにしたいんだ。それくらいの我儘は許せるだろうよ”
8R、矢吹は何かに憑かれたようにホセにパンチを浴びせ続ける。ホセはコーナーに追い詰められながらも、冷静に勝機を見切っていた。
王者が留めのコークスクリューを打ち込もうとしたその瞬間、矢吹は逆クロスのコークスクリューをホセの左テンプルに合わせる。
頭蓋が軋む音がリングサイドにまで響き渡る。手応えは十分過ぎる程だ。ホセはもんどり打って頭から倒れ込み、カウント10は確実に思われた。がしかし、ジョーは右目だけでなく左目の視界も失いつつあった。ドランカー症状は更に加速する。
”両目だけでなく全てを潰されたら、白い灰どころではなくなる・・・”
カウント8でかろうじて立ち上がったホセに、矢吹は一気に襲いかかる。殴られっ放しのホセは全くの棒立ちになり、スタンディングダウンかと思われたその時、ジョーに異変が起きた。
身体に全く力が入らないのだ。やがて、ヘナヘナとホセの足元に倒れ込むと、丹下は(阻止しようとする葉子の手を振り切り)、タオルを投げ入れた。
”終わったんだジョー、もう十分だ。試合には負けたが、殴り合いじゃ負けちゃいなかった。それで十分じゃないか”
抱かれる様にしてセコンドに戻り、しばらくは白い灰のように気を失ってたが、やがて意識が戻るとジョーは静かに言い放つ。
”なぜ、止めたんだ。オレはこのリング上で全てを終わりにしたかったんだ。勝ち負けじゃなく、全てを灰にしたかったんだ”
”ジョー、やつを見ろ。灰になったのはホセの方だ。が、お前はまだ灰になっちゃいない。今日はこれで十分だ。真の勝者は誰か、やつが一番理解してるだろうよ”
少し冷静になった矢吹は、死というものを初めて等身大に意識した。そして、今のままでの自分を振り返った。
”確かに、自分は1人でここまで来れたんではない。周りの皆が孤児だった自分を支えてくれた。リング上で死ぬのはオレの勝手だが、そんな事を自分以外の誰が望むだろうか”
泣きじゃくる西が呟いた。
”ジョー、悔しい気持ちは判るが、オレやおやっさんの気持ちも考えろよ。もしお前が死んだら俺たちどうなる。何を頼りにして生きていけばいいんだ?”
矢吹は返す言葉を失った。
やがて、頭髪が真っ白になったホセに勝利が告げられると、コーナで座ったままの矢吹に握手を求めにやってきた。
”今夜はお互いに十分すぎるほど殴り合った。もうこれで終わりにしよう”
握手を交わそうとしたその時、今度はホセが矢吹の足元に倒れ込む。
一瞬、力石の死が頭をよぎったが、今度はジョーがホセを抱きかかえると、耳元で囁いた。
”オレが万全な状態だったとしてもアンタの完璧さには及ばない。全てを犠牲にして勝てる相手じゃない事が分っただけでも恩に着るぜ”
ホセの無事を確かめ、安堵した矢吹がリングを降りると、そこに待ってた葉子と互いの瞳を交わす。
”アンタのお陰で助かったよ。全てを失う所だった。オッサン(丹下)だけではタオルは投げれなかった。アンタの判断は正しかったのさ”
もう一つのヒロイズム
矢吹とホセの再戦はお互いの入院と療養が長引き、正式に決まってはいなかった。
矢吹の右目と重度のドランカー症状は白木財閥が抱える第一級の医療スタッフ群により、何とか食い止められ、症状は快方に向かっている。
一方で、左テンプルの頭蓋にひびが入り、軽い脳内出血を患ったホセは、思った以上に入院が長引いていた。
”あれからもう1年が経つのか。早く試合がしてーな”
白木邸で静かに療養生活を送る呑気なジョーに、葉子は静かに寄り添う。
”何言ってんの、まだ絶対安静なのよ。たまには私の願いを聞いて頂戴”
”アンタが力石に未練があるのは分っていた。オレも力石の分まで戦おうとしたが、あの状態では最初から無理だった。今思うと、あの力石が試合を止めたと思うんだ”
”力石くんが・・・”
”ああ、あの力石がよ・・・結局、人生って独りでは一歩も進めないんだよな。
アンタがいたからオレはホセに挑戦できた。そして、アンタがいたからこそオレはここにいる。じゃなかったら、リング上で白い灰になって終わってた”
”そんなんじゃないわ。最初から貴方はホセと戦う運命だったの。でも、大切な人を二人も失う訳にはいかないわ”
”いや違うね。力石はオレの魂の中で息づいてる。ヤツの躍動がオレには判るんだ。奴はオレの中で生きている”
”だったら私は、やんちゃな二人を同時に愛してたって事ね。アララ・・先が思いやられるわ”
”実はね、試合前のロッカーでアンタが愛を告白した時、複雑な気持ちになった。アンタは俺を本気で救おうとしたんだよな”
”言い忘れたけど、カルロス君も少しずつ快方に向かってるらしいわ。リングサイドに噛りつき賢明に応援してくれたものね。そのご褒美かしら・・”
”俺には判る。カルロスの咆哮がね・・人間はね、そう簡単には死ねないんだ”
という事で、もう一つのエンディングでした。
賛否両論あるかと思いますが、”もう一つのヒロイズム”という視点から、この様な展開にしました。悪しからずです。
“力石徹と矢吹ジョーは梶原とちばが作り上げた昭和の化身”
確かにその通りだと思います。
マンガにしろ映画にしろ音楽にしろ、
大衆を相手にした娯楽文化は、
やはり作品が出来た時代を無視できないと考えます。
鬼才「梶原」と天才「ちば」のタッグですから、
2人が時代を牽引したと言えるかもしれません。
オリジナルのラストシーン。
ジョーは真っ白に燃え尽きたように見えますが、
果たして彼は死んだのか、生きているのか?
無事なのか、廃人なのか?
発信側は真実を明らかにせず、
リングを下りた後のストーリーは読者に判断を委ねました。
もしかしたら「象が転んだ」さんの
“もう一つのエンディング”があるかもしれませんね。
最後に、大変僭越ながらご指摘申し上げます。
作画は「ちばてつや」であります。
では、また。
あの時代の男の人は熱狂していましたね。
私はちばてつやさんは、幼い頃兄が読んでいた「紫電改のタカ」の特攻隊の死が忘れがたく記憶にあります。「あしたのジョー」も読んだわけではありませんが、若者の戦う孤独な死が学生運動などのイメージとも重なって、切なく、また格好イイ位の気持ちで眺めていた、ような……
歌も尾藤イサオが、ドラマチックで泣かすのよね。今はあんな過剰なドラマも歌も日本にはないような、あるのかな?
エゴイズム、エゴイスト、ニヒル等の言葉も今では余り見かけませんね。
像が転んだ様のお話の主旨にそぐわないコメントで、(内容が難しくて)思いのままに🙇♀️💦💦
アマプラで偶然に出会い、すっかり魅入ってしまいました。
言われる通り、こういう所はネット様様かもですね。
「キャプテン」や「プレーボール」の影響が強いせいか、”ちば”と言えば”あきお”ってなりがちですが、実の兄弟なんですよね。
言われる通り、梶原が鬼才ならちばは天才。
昭和って振り返る程に凄い時代だったんですよね。
コメント有難うございます。
尾藤イサオさんの歌も素晴らしかった。
ちばてつやは「紫電改のタカ」って漫画を書いてたんですね。早速読んでみたくなりました。
昭和って熱狂できる何かがあった時代。
ジョーの魅力は大衆が生んだ昭和の魅力でもあったんですかね。
これはこれですごい!
物語の予定調和をぶっ壊していますよね。
『ジョー』が昭和の産物だとすれば、『スラムダンク』は平成の産物。
ちばてつやが昭和の鬼才だとすれば、井上雄彦は平成の鬼才。
令和の現在、映画がヒットしているようですが、『スラムダンク』は昭和がどう清算されたかを知るにはいい作品かもしれません。
「あしたのジョー2」ではこの2つが見事に表現されてました。
梶原氏も真木氏も意外とロマンチストなんですよね。気持ち痛いほどわかります。
「スラムダンク」はあまり見てないんですが、NBAのジョーダンやユーイングの印象があります。
昭和から平成へ、時代と同様にヒロイズムも変わるんですかね。
ああ、終わったんだなあ。
その後のジョーがどうなろうと、さて、次の面白いマンガは・・・
という不誠実な読者でした。
確かに
漫画と割り切ればそうかもですね。
どうもう情が深いせいか
若者がわずか21歳で廃人なるのが忍びなくて・・・
コメント有難うございます。
まさに昭和が昭和であり続けた2つの言葉には、濃密な自虐性という共通点があるように思えます。
未熟な青年が完成された大人へと成熟していく過程は、昭和時代の経済成長をそのまま映し出してます。
昭和の時代は明日がありましたが、令和の時代には明日があるのでしょうか。灰のように真っ白になって終わるんですかね。
沢木耕太郎さんの”濃密なヒロイズム”という言葉がなければ、「あしたのジョー2」は最後まで見てませんね。
そういう意味で、須賀清の存在はとても大きかったです。
自虐過ぎたエゴイズムも悪くはないんですが、昭和って全てが許された時代なんでしょうか。
お褒めいただいてありがとうです。
濃密なエゴイズムだとすれば
ジョーは
自虐過ぎたヒロイズム
そう見る事もできそうです。
個人的にはですが
ホセとジョーの試合は全体的に雑に映りました。それに、減量苦はどこへ?って感じでした。
そのうえ、パンチドランカーに冒されたジョーが捨て身で勝てる訳がないのに、ちばさんも少し感傷的になり、ジョーと心中したのかな。
ルポライターの須藤清とヤクザ?のゴロマキ権藤はどう見ても力石ですよね。
そう言えばカルロスと力石も見てみたかった。
白い灰になったジョーの印象が強いんですが、ホセとの試合は少し淡白にも思えましたね。
でも”濃厚なヒロイズム”という視点では結果オーライという気もします。
言われる通り、ホセのエゴイズムとジョーのヒロイズムの激突とも見れますが、矢吹丈に一番近くにいたちばてつや氏が描いたジョーが理想的だったんでしょうね。
須藤清とゴロマキ権藤の存在は作品に大きなインパクトを与え、リアルな臨場感を与えてくれたように思います。