象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

モンティのパラドクス〜確率は見かけによる?(更新)

2022年11月13日 04時30分39秒 | 数学のお話

 直感で物事を判断すると大怪我をするというのは、数学の世界でも指摘される事だが、日常生活においても同じ事が言えるケースが暫し存在する。
 例えば、回転寿司屋で鮮やかな色合いの大トロが目についたとする。その横には貧相なカッパ巻きがある。マグロときゅうりでは勝負はついたようなもんだ。
 大衆の99%は迷わず大トロを選ぶ。1皿200円でも300円でも選ぶ。しかし、その大トロが腐ってたら、いや鮮度が著しく落ちてたら、カッパ巻きの足元にも及ばない。
 私は、博多のある有名な回転寿司屋でそんな経験をした事がある。(大トロで見事に裏切られ)動揺し我を忘れた私は、中トロと赤みを連続して注文した。結果は同じであった。
 それ以来(滅多に行く事はなくなったが)、万が一回転寿司に行く時は、巻き寿司かゲソ揚げを注文する様にしている。

 つまり、生モノのネタが安くて美味しいのは、”鮮度がいい”という初期条件付きである。一方で、カッパ巻きなどの巻き寿司に使われるネタは鮮度が一定してるから(条件に関わらず)当たり外れが少ない。
 こうした初期条件を無視して物事を直感で判断すると、かなり高い確率で痛い目にあう(多分)。
 そこで今日は、確率は見かけによるのか?を「モンティ・ホール問題」を例に上げて紹介します。


”モンティ”のパラドクス

 ”モンティ・ホール”問題とは、一種の心理トリックで、モンティのジレンマやモンティのパラドクスとも称され、”直感で正しいと思える答えと論理的に正しい答えが異なる”疑似パラドクスとされる。

 3つの閉じたドアのいずれか1つに当たりが入っている。ゲストが1枚のドアを選ぶ。
 その後、ハズレのドアが司会者のモンティ・ホールにより1つ開かれる。故に、閉じた残り2枚のドアの当たりの確率は直感的に見ればだが、それぞれ同じ1/2になる筈だ。しかし、それは(論理的に見て)正しいのだろうか?
 実際は、プレイヤーには”最初に選んだドアから開けられていないドアに変更してもよい”とモンティに告げられる。
 ここでプレイヤーはドアを変更すべきだろうか?

 そこでマリリンが導いた答えは、”ドアを選び直せば確率は2倍の2/3になる”と。
 因みに、マリリン・ボス・サバントとは、ギネスに最も高いIQ(=308)を有すると認定された最後の人物(女性)でもある。
 1990年、「マリリンに聞く」のコラムで読者が”モンティホール問題”について質問した際、直感に反する彼女の回答が大きな反感を呼び、高名な数学者ポール・エルデシュまでもが反論する事態となる。しかし(皮肉な事に)、エルデシュの弟子ヴァージョニがコンピュータで計算し、マリリンの正しさが実証された。
 反論の投書には1000人近い博士号保持者からのも含まれ、その大部分は”ドアを変えても確率は同じ1/2であり、2/3にはならない”と。
 更に、”一般大衆の数学的知識の低さを憂慮する”とか、”君は明らかなヘマをした・・・世界最高の知能指数保有者である貴女が自ら数学的無知をこれ以上世間に広める愚行を直ちに止め、恥を知るべきだ”と罵られる始末。
 これに対しサバントは、”ドアを変えれば勝てるのは3回の内2回(のケースが考えられる)。しかし、ドアを変えなければ勝てるのは3回の内1回だけだわ”と反論した(イラスト参照)。


直感が外れた時、人は動揺する

 しかし、彼女に対する反論は9割を下らなかった。”現実が直観と反する時、人々は動揺する”とサヴァントはコラムで反論に応じる。
 ”(確かに)司会者がハズレの扉を1枚開けるという前提(初期条件)を無視すれば、確率は五分五分になる。一方で、景品が扉2または扉3にあるなら、出場者が扉の選択を変えれば勝利する。つまり、どちらかでも勝てるのです。でも扉を変えなければ扉1に賞品がある場合しか勝てない”

 ”最も高い知能指数を有する者が子供でもわかる些細な間違いを新聞で晒した”等の数多くの激しくも露骨な反論の嵐に耐え、彼女は持論を擁護し通し証明した。しかし、ドアの数を100枚に増やした例まで挙げて説明しても、正しく理解してもらえなかった。
 大騒ぎとなった原因として、数学的ルール(初期条件)に対する説明が不足し、”解釈”の余地(自由)があった事で、多くの混乱や反発を招いたと。 
 ”どちらを選んでも変わらない”と批判した者の多く(特にプロ数学者)は、これ(初期条件)を知らなかったものとされる。

 (イラストでも明白な様に)サバントの解答を簡単に説明すれば、
 ①(初期条件なしの)最初に、プレーヤーが当たりを引く確率は1/3である。
 ②モンティがドアを開けた後に、プレイヤーがドアを変更しない時は、(当る確率は)そのままの1/3である。
 ③プレイヤーがドアを変更する時は、最初に選択したドアがハズレなら、変更後のドアは当たりである。つまり、最初に選択したドアがハズレである確率2/3=ドアを変更した時に当たりを引く確率2/3である。
 但し、最初の選択で当たりを引く確率は1/3が故に、ハズレを引く確率は2/3である。
 以上より、③からドアを変更した時の当たりを引く確率は2/3となる。

 因みに、100枚のドアを使った例では、プレーヤーが最初のドアを選んだ時、このドアの当たりの確率は1/100。次に、モンティが残り99枚のドアのうち98枚を開けてヤギを見せる。プレーヤーは2回目の選択をする。
 最初にプレーヤーが選んだ1枚のドアの確率(=1/100)と、”残り99枚のうち、正解を知ってるモンティが開こうとしなかった、たった1枚のドア”に変えて当たる確率(=99/100)が同じでない事は、(少しややこしいが)直感でも理解可能である。

 この様に、初期条件をしっかりと確認し、場合分けして論理的に考えれば理解できる事だが、サバントが指摘する様に、一度動揺した人間は直感に頼りたがる。
 事実、太平洋戦争もプロパガンダや陸軍の暴走だけでなく、こうした動揺し興奮した大衆の直感が招いた悲劇とも言える。


ゼノンのパラドクス

 勿論、パラドクス的な視点で見れば、最初からドアが1つ開いた状態で、2つのドアから1つを選ぶという問題であったなら(条件なしの)”事前確率”となり1/2 である。それに対し、ある条件によってドアが1つ開いた状態になった場合は、(条件付きの)”事後確率”となりはドアを変更しない時は1/3でとドアを変更すれば2/3 になる。この様に、条件があるなしでは確率が異なる事から、パラドックスといわれる理由がある。
 しかし、これは論理的に矛盾がある訳でもなく、”擬似パラドックス”とも呼ばれ、ドアが2択になった経緯(条件)を知ってるか知らないかの差、つまりが事後確率と事前確率との差が、確率の評価に影響している。数学的に言えば、モンティのパラドクスは直感による錯覚と事後確率が生んだ矛盾とも言える。

 しかし、ここまで書いても何故?と思う人は少なからずいるだろう。つまり、矛盾(パラドクス)というのは人生の後悔と同様に、数学の世界においても、しぶとく纏わりつくのである。
 そこで「アキレスと亀」で有名なゼノンのパラドクスを紹介する。
 現実的には、俊足で鳴らすアキレスが90M先にいる亀を追い抜く事は明らかですよね。
 しかし、これを数学的に見ればだが、最初に亀のいた位置にアキレスが辿り着いた時、亀は少し前にいる。以降、この繰り返しが永遠に続くから、”アキレスは亀に追いつけない”というのゼノンのパラドクス、いや理屈である。

 しかし、その無限の繰り返しに掛かる時間と距離は(収束するから)無限ではない。
 例えば、アキレスが90M進んだ時に(90M先にいた)亀が9M進んだとして、これが無限回繰り返されるから、アキレスの進んだ距離をXとすれば、X=90+9+0.9+0.09+0.009+・・・という無限等比級数が成立する。
 この初項90、公比1/10の無限級数が有限の値=90/(1-1/10)=100Mを取る事は高校の数学で簡単に解けますね。
 同じ様に、この無限の繰返しに掛かる時間をTとすると、T=9+0.9+0.09+0.009+0.0009・・・となり、有限値(=10)を取る。
 つまり、アキレスが亀に追いつくに必要な時間(10秒)も距離(100M)もどちらも有限となる。故に、無限回という繰り返しの条件付きだが、アキレスは10秒後(100M後)に亀に追いつき、そして追い越すので、(現実的に見ても)数学的に見てもアキレスの勝ちとなる。

 しかし、ここでも問題(矛盾)は発生する。
 言われる通り、アキレスが亀に追いつくとすれば、無限にある筈の数を数え切れてしまう。言い方を変えれば、有限の時間内に無限の作業(繰り返し)が完了する。
 これこそがゼノンのパラドクスのパラドクスたる所以と言える。

 一方で、無限回という繰り返しは現実的に可能なのか?となる。
 そもそも、現実的に見て、99.99999・・・=100と言えるのか?
 いや、100Mという距離は無数の点からなるのか?
 仮に、100Mの距離が有限個の点からなるのなら、アキレスは簡単に亀を追い越せる。
 一方で、100Mの距離が無限個の点からなるとしても、加算無限(可能無限)なら無数個の点と言えど、アキレスは亀を追い越せるだろう。
 しかし、カントールが発見した非可算無限(実無限)なら、アキレスも亀も1Mを歩く事すらできない。勿論、アキレスが90M先にいる亀を追い抜くのは夢のまた夢である。
 しかし、上で述べた”90M先にいる亀”という初期条件を素朴に考慮すれば、加算無限でも非加算無限であっても、アキレスの前に亀はいるのである。


最後に〜無限とパラドクスの密な関係

 つまり、前提として”亀がアキレスの先にいる”と見れば、アキレスは亀を追い越せない。そこに矛盾は存在しない筈である。
 現代数学では、無限とは非加算無限の事であり、”距離は無数の点からなる(数直線上の線分)連続体である”と解釈される。但し、(カントールが証明した様に)非加算無限に次元は存在しないが、非加算無限を超える無限の存在は証明も反証もなされてはいない(連続体仮説)。
 しかし、非加算無限でも(アリストテレスがゼノンのパラドクスで指摘した様に)次々とパラドクスは報告されている。
 そこで数学者たちは、公理系といった数学の論理的なルール作りに改良を重ね、パラドクスが起こらない様に厳密な学問体系を作り上げてきた。故に、パラドックスは私たちに”無限とは何か?”という根本的な問いを投げかけ、数学はより厳密な学問として発展してきた。
 それでも、条件(ルール)の選択や考察次第では矛盾が発生する。更に条件がタイトになる。
 数学が厳密でややこしいのはその為で、だから嫌われるのだろう。

 この様に、初期条件を無視すれば、非常に曖昧で矛盾(パラドクス)に満ちて見える問題も、条件次第では(論理的にだが)正しくなる。
 つまり、現実的に(いや身の回りに)数多く発生する矛盾は、数学の世界でも同様であり、それらの矛盾を少しでも減らす為に、様々な公理体系が作られる。
 これは人間社会で時代に応じたルール(初期条件)作りがなされるのと同じである。しかし、ルールを無視しては健全な人間社会が構築されないように、公理や条件を無視しては、現代数学は成り立たないのである。

 多くの数学者を勘違いさせたモンティ・ホール問題も、2400年以上も学者らを悩ませ続けたゼノンのパラドクスも、ルールを無視すれば全てが矛盾に滑稽に見える。 
 だが、矛盾に満ちてるから人生も数学もドラマチックなんだろうけど・・・



10 コメント

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難しいですね (タック(takx007))
2022-11-13 08:12:36
回答者がはじめに扉を選ぶとき、正解だと思う方を選んだと考えず、残す扉を選んだと考えれば、確率は1/2で問題ないでしょうから、回答者の気の持ちようなのかしら?
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タックさん (象が転んだ)
2022-11-13 12:00:18
混乱した人の多くが
モンティが途中でドアを1枚開けた時点で、二者択一の問題と決め付けた事に、大きな問題がある。更に、マリリンが”確率は2倍に跳ね上がる”としたから、一気に炎上した。

しかし、プレイヤーが一度ドアを開けてるから、その後の選択は事後確率(条件付き確率)となり、最初にドアを開けた確率(=1/3)は、その後の選択でも生き続けます。
故に、選択し直した場合に当たる確率は、二者択一の2つのケースが考えられ、1/3×2=2/3となる。

冷静に考えれば、簡単に理解出来る筈ですが、直感による思い込みの盲点を見事に突いた問題ですね。
ただ、ゼノンのパラドクスに比べたら、ずっと簡単で記事にしたんですが・・・
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100枚のドアだと (腹打て)
2022-11-13 14:08:09
モンティが98枚のドアを開けたとして、当たる確率は1/100から一気に99/100に跳ね上がるのかな。
頭に血が上った大衆は、ここでも丁半賭博で五分五分の確率と信じ込んだろうね。

結局、大衆というのは自分が最初に正解だと信じ込んた答えが絶対なんだ。
流石にここまで来ると、大衆とは疑うことさえしない哀れな生き物よ。

集合論だって、ラッセルはカントールの素朴系には矛盾があるとして、公理系が注目されたけど、公理系にも矛盾が発見された。
今では条件によっては、直感で扱いやすい素朴系が採用されたりと、集合論をどう捉えるかによっても矛盾が介在する。
でも直感って矛盾を生みやすいけど、偉大な発見や難題の証明も多くは直感の恩恵で解決するという矛盾が存在する。

矛盾と誤解と後悔は存在して当然の産物なのだ。 
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腹打てサン (象が転んだ)
2022-11-13 14:32:37
ご指摘どうもです。
残り99枚のドアに当たりが入ってるケースは99通りあり、モンティが98枚のドアを開けた後、プレイヤーが残り1枚のドアに選択を変えた時の当たる(事後)確率は、99/100となりますね。
モンティが当たりのドアを開ける確率(=0)と勘違いしてました。
早速、訂正です。

一方で、ラッセルのパラドクスを解消する為に、ZF公理系というのが構築されたんですが
命題関数(真かまたは偽の値をとる関数)から集合を定義するやり方だと問題は起こらない。つまり、注意深く条件を吟味して集合論を定める。
悪く言えば、問題が起きそうな課題は徹底して避けるというものですね。

ラッセルが取り上げた”自分自身を要素としない集合の集合”も無限の考察が関係してくるから、ややこしい。
という事で、直感は思考を一気に飛躍させるけど、初歩的なミスも生じるんですね。
反省!反省!
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腹打てサン (象が転んだ)
2022-11-13 14:43:43
再び訂正です(悲)。

正確には、”自分自身を要素としない”ではなく、”自分を要素として含まない”ですかね。
ああ、ラッセルのパラドクスも記事にしたくなりました。
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理解できました。 (タック(takx007))
2022-11-14 05:45:47
なるほど。
最初に選んだ時点で当たりを選んだ確率が1/3なら、他のドアが当たりの確率が2/3。
なら、その後、ドアを変更したら確率は2/3の方を選ぶことになるわけですね。
100枚のドアなら、最初に選んだときは1/100。他のドアが当たりである確率は99/100。
なら、ドアを変更して、1/100から、99/100の方へ鞍替えすればいいわけですね。
モンティがドアを開けるという行為が、錯覚を生んだのですね。
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タックさん (象が転んだ)
2022-11-14 10:26:37
言われる通り
”モンティがドアを開けるという行為が錯覚を生んだ”んですよ。
つまり、直感は錯覚を生みやすいから間違いも生じやすい。
そういう私も、100枚のドアでは初歩的なミスを冒しました。これも直感がもたらしたものですね。

こうした錯覚を取り除く為に、タイトな公理が存在し、現代数学は時代と共に気難しくなっていきます。
しかし、過去には(今もですが)多くの数学者がこうした直感による錯覚に苦しんできました。
まさに、”ミイラ取りがミイラになる”の典型ですがね(笑)。
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腹打てサン (象が転んだ)
2022-11-14 15:22:15
三度、コメントの訂正です。

”命題関数から集合を定義するやり方だと問題は起こらない”ではなく、”命題関数だと問題が起きる時がある”でしたね。
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丁半賭博 (tokotokoto)
2022-11-16 13:18:02
太平洋戦争の時も
日本人は丁半賭博で戦争に突入したんだろうか。
勝つか負けるか五分五分という直感で判断したんだろうか。
勝つ確率を条件を冷静に分析すれば戦争は回避できたはずなのに、一か八かでドンと行っちゃった。

モンティホール問題も多くの大衆がモンティがドアを開けた時点で条件なしの丁半賭博と決め込んだ。
マリリンが100枚の扉を使って説明しても条件を無視してた大衆は五分五分と判断した。
決め付けによって思考を止めた凡庸な人間ほど恐ろしいものはない。

そう言いたいんでしょ^^;転んだサン 
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tokoさん (象が転んだ)
2022-11-16 22:59:33
お久しぶりです。
記事にした私も答えを知ってるから冷静でいられるんですが。不思議と1/2という確率には矛盾を覚えました。
というのも、直感的に確率の分母は3になると思えたからです。

最初にカードを引いて当たる確率が1/3という事に注意すれば、後はスンナリ行く筈ですが。モンティがカードを開けた瞬間、思考がデフォルトされるんですよね。

つまり、大衆の思考はパニックになると簡単に凡庸に陥る最悪のケースかもです。
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