矛盾には色々とあって、単純な錯覚や思い違いによるものや、条件の解釈次第では矛盾が発生するもの等がある。だから、人生にも数学にもパラドクス(矛盾や逆説)がなくなる事はないんですが。だから人生も数学も厄介だが、愉快だと言えなくもない。
「モンティのパラドクス」は条件付きの”事後確率”のテーマとも言えるが、我らが確率と呼んでるものは通常は条件なしの”事前確率”の事である(多分)。つまり、条件を無視したが故の単純なパラドクスであり、如何に直感が錯覚を生む事がよく分かる。
一方、「ゼウスのパラドクス」では、初期条件(亀がアキレスの先にいる)がネックになり、その後の考察次第ではパラドクスが生じでしまう。
今回紹介する「ラッセルのパラドクス」では、(初期条件に相当する)命題を真か偽で判断した場合、どっちつかずの不可思議な矛盾が発生する。つまり、条件を野放しに定義すると、素朴集合論の中にラッセルの矛盾が生じてしまう。
但し、この矛盾を回避するには、厳密な公理を事前に準備する必要がある。つまり、数学の厳密さで徹底的に矛盾の元となる古典的な曖昧さを削除しようという訳だ。
「ラッセルのパラドクス」とは、(カントールが構築しフレーゲによって発展した)素朴集合論における矛盾を導くパラドックスであり、ラッセルはそれを指摘し、更に矛盾を解消しようとした。故に「ラッセルの逆理」とも呼ばれる。
因みに、素朴集合論とは(後で述べる)公理系集合論の無矛盾性や完全性を扱っていないという意味での”素朴”であり、自然言語を使用して、集合や集合の操作(and,or,notなど)を記述する理論は、現在でもより高度な数学で用いられる。
「床屋のパラドクス」に代表される様に、ラッセルのパラドクスでは、仮定(条件)がどちらに転んでも矛盾する。
このパラドックスは、ZF公理(又はZFC公理系)で知られるツェルメロが1年先に発見してたが、彼はヒルベルトら近い友人にしか知らせず、その発見を公開してはいない。故に、「ツェルメロのパラドクス」と呼ぶべきだとの声も多い。
ラッセルの指摘
ラッセルは、”自分自身を要素として含まない集合全体の集合”を集合論の例として取り上げ、素朴集合論の矛盾を指摘した。直感の鋭い人は、この文脈を見ただけで矛盾が起こりそうだと感じるかもですね。
そこで、全体集合Uを”あらゆる集合xを要素として持つ集合”とすれば、任意のxに対し、x∈Uと定義できる。
因みに、”∈”は内包記号と呼ぶが後々大きな意味を持ってくるので一応確認です。
また、”自分自身を要素として含まない集合の集合”であるRを変数xに関する命題関数x∉xを用いて、R={x∈U|x∉x}と(内包記号∈,∉を用いて)定義すれば、R⊂Uという関係が出来上がる。
但し、Rをラッセル集合と呼び、”自分自身を要素として含まない集合全体の集合”がRとなってる事がわかりますね。
この時、x∈R⇔x∉xー①が成立し、一方で、この逆を取れば、x∉R⇔x∈xー②が成立します。
以下、WIISさんのコラムを参考にして説明します。
そこで、Uの定義によりR∈Uが成立し、RはU部分集合が故に、Uの要素であるRはUの部分集合であるRの要素であるか?否か?となる。
まず、R∈Rと仮定すると、これはRの定義①よりR∉Rとなるから矛盾する。しかし、R∉Rとすれば、Rの定義②よりR∈Rとなり、これもまた矛盾する。
この様に、命題関数”x∉x”から集合を内包的に定義するやり方には、どっちつかずの矛盾がある事がわかります。つまり、命題関数を真理集合(真の値を取る関数)として集合を定義するやり方には限界がある。
故に、ラッセル集合Rが正しいか正しくないのか、証明すら出来ない。言い方を変えれば、”自分自身を要素として含まない集合の集合”であるRは、”自分を要素として含むかどうかさえも決定できない”となる。
これを有名な「床屋のパラドクス」に当てはると、”ある村に一人の床屋がいて、彼(男)は自分でヒゲを剃らない全ての人のヒゲを剃るが、自分でヒゲを剃る全ての人のヒゲを剃らない。では、誰が床屋のヒゲを剃るのか?”
そこで、上の条件を満たす床屋からなる全体集合をUとする。
ここで、集合A⊂Uを{x∈U|xは自分のヒゲを剃らない}と内包的に定義すると矛盾が生じる。集合Aがラッセル集合に相当する事に注意です。
これは、”床屋が自分でヒゲを剃る”と仮定すれば、”自分でヒゲを剃る全ての人のヒゲを剃らない”という定義より矛盾するし、一方で床屋が”自分でヒゲを剃らない”とすれば、”自分でヒゲを剃らない全ての人のヒゲを剃る”に矛盾する。
集合とは何か
そこで、このラッセルのパラドクスを回避する前に、集合の基本の基を確認します。
これを知ってると知らないとでは大きく理解が異なってきます。少し面倒ですがお付き合いください。
ある条件を満たす対象をすべて集めたものを集合(set)と呼び、個々の集合をA,B,C,,,とアルファベットの大文字で記し、集合Aの要素(元=element)をaとする時、a∈Aと書く。また、要素ではない時はa∉Aとなる。AとBが全く同じ要素を持つ時はA=Bと記します。
そこで、集合を表現する方法として”外延的表記”(名簿表記)と”内包的表記”がある。
前者の外延的表記から説明すれば、集合Aの要素が1,2,3という3つの数字からなる時、A={1,2,3}と表す。但し、外延表記では要素の順番は集合には関与せず、{1,2,3}={3,2,1}=Aとなる。
ただ、要素が多すぎて表記できない時は、例えば、全ての自然数を要素とする集合をAとすると、A={1,2,3,・・・}と記し、省略記号⋯を用いて表現する。
一方で、集合は”命題関数”から定義出来る。つまり、条件(命題)さえあれば集合は存在する。
命題関数とは、その関数の形状と定義域(議論領域)に代入する変数(解釈)が決まれば、真(=1)または偽(=0)を値とする命題が得られる事からその名がついたとされる。
例えば、x∈Xに関する命題関数P(x)が与えられた時、命題P(x)が真になる定義域Xの要素xを全て集めればP(x)の(論理式が真の値(=1)をとる)真理集合Aが得られる。
そこで、そのような集合をA={x∈X|P(x)}と記し、これは任意のxに対し、”x∈A⇔命題P(x)が真”を満たす。
この表記法を”内包的表記”と呼ぶ。但し、x∈Xが文脈から明らかな場合は、{x|P(x)}としても構わない。また、”x∈A⇔命題P(x)が真”の逆を取れば、”x∉A⇔命題P(x)が偽”となり、{x∈X|¬P(x)}と記す。”¬”とは偽を表す記号に注意。
一方で、命題P(x)は真か偽のどちらか一方を取るから、集合AをA⊂Xと定義すれば、定義域Xの変数xは集合Aに属するか否かとなる。つまり、x∈A(=P(x)が真)またはx∉A(=P(x)が偽)となる。
簡単な例では、整数Zに対し、正の整数の集合A⊂ZをA={x∈Z|x>0}と記せば、10∈Aであり−10∉A。つまり、同じ整数でもAの要素である数と要素でない数に分かれる。
つまり、外延的表記では要素の属性の表現が難しい集合を、内包的表記では形式的(論理的)に明確に表現できるシンプルな記法と言えますね。
因みに、内包的や外延的の記法は公理や定義にても使われる。
まず、”内包公理”(comprehension axiom)は包括原理とも呼ばれ、”命題さえ決まれば(それに対応する)集合が必ず決まる”事を言います。つまり、”任意のP(x)に対し、P(x)を満たす元xの集合A={x∈X|P(x)}が存在する”と定義できる。単に、内包記号∈を使って定義するからとしても間違いじゃないとは思いますが・・・
また、”外延性公理”(extensionality axiom)とは”集合はそれに含まれる要素(元)により一意的に定まる”と主張し、”全く同じ要素からなる2つの集合は等しい”となる。
素朴集合論(naive set theory)はこの2つの公理でまとめる事ができるが、内包公理が命題そのもの(性質)を指すのに対し、外延性公理では命題を満たす要素全体(外観)を指す。
ラッセルのパラドクスでは、この”ナイーブ”な内包公理を無差別に使うと矛盾が発生する。故に、”自分を要素としない集合の集合”という悪循環を犯しそうな内包公理を排除するが。その代わりに、(後半で述べる)制限された内包公理である”分出公理”を使う。
つまり、(”自分を要素としない集合の集合”という曖昧な集合ではなく)何か既知の集合を全体集合と考えて固定し、その要素の集合を内包的定義で定める事で矛盾を回避するというものである。
因みに、哲学でも使われる2つの言葉だが、内包は積集合(∩)で、外延は和集合(∪)で規定されると。
少し長くなったので、前半はここで終了です。次回の後半はこの不可解なラッセルのパラドクスをどうやって回避するかがテーマです。
順序数全体の集合(選択公理)
集合全体の集合(内包公理)
ラッセルの集合(自分を含まない集合)
の3つが考えられるけど
だから集合論はややこしい。
comprehensionは包容力,包含とかの意味だけどそのままとっていいのかな
axiomとは自明の理という事で
公理とか原理となるのは理解できる
つまり
集合の要素の中身と外見の違いだけなのかな?*_*@_@
2番目と3番目は区別して考えたいんですが、多くのサイトではゴッチャにしてます。
そういう私も、ラッセル集合を”自分を要素としない”集合として話を進めてみましたが、”自分を要素としない”という曖昧な記述が誤解を生むのか?”集合全体の集合”としたから矛盾を生むのか?
でも(よく考えると)2番目は”カントールのパラドクス”だったんですね(悲)。
元の集合から全ての部分集合(べき集合)を書き出すと元の集合をはみ出す事から矛盾が起きるんですが、そういう意味でもラッセルというよりカントールのパラドクスですよね。
一方で、1番目の選択公理は公理系集合論が登場してから付け加えられましたから、素朴集合論だけの矛盾とも思えないんですが。
だからややこしいんですかね。
コメントとても参考になりました。
”属性”と”見た目”の違いですかね。
それと内包公理で言えば、条件さえ決まればそれを要素として”内包する”集合が決まる。
これも書き忘れたけど、単に内包記号”∈,∉”を使って定義(表記)するからとも言えますが・・・
また、”色が赤い果物”という風に要素の属性(性質)を言い表し、集合を記述する事を”内包的”表記と言い、一方で、具体的に集合の要素を目に見える形で集合という陳列棚に並べ飾る事を外延的表記と。
”あの人はいい人だ”なんていう曖昧な内包的表現を認めると誤解や矛盾が起きそうだけど、その人を直接見れば多くの誤解が解けますよね。
素朴集合論ってそういうのも含めるんですが、論理的に強引に定義しようとすると内包的性質により矛盾が生じる。
答えになってなくて、スンマセン(=_=)
素朴集合論では内包公理が矛盾の焦点となってるようだけど、その公理自体に矛盾があるわけでもなく、内包公理の扱い方に矛盾があるんだろうね。
それだけ内包公理ってのがナイーブな証拠なんだろうけど。
故に、真か?偽か?という二項選択を無差別に認めるとラッセルが指摘した矛盾が起こりうるんだけど、カントールの矛盾のほうが明確な論理性がある。だから理解する上でも殆ど混乱は起きないけど、ラッセルの方は再帰的すぎて文脈の捉え方次第でも混乱が起きそうだ。
だからパラドクスというよりも再帰的公理が導き出す悪循環と言ったほうがいいのかもしれない。
でも元々集合論の公理ってのが再帰的だから、どうしても誤解を生むし、抽象的になるのは仕方がないことだけれど
つまり無制限に何でも受け入れるんですが、カントールの素朴集合論にはクリアな論理の形で集合を表現しようとする主張がある様に思います。
集合とは文字通り”物の集まり”ですが、そんな単純な言葉で表せるほどナイーブでもないんですかね。
洒落になってなくてスイマセンです。
ゼロコロナとかウイズコロナとか騒がれたんですが、これもどっち転んでも矛盾が存在しますね。
ある事象を何か論理的に定義する時、その論理が完全ではない限り、私達が信じて疑わない論理が破綻するケースがあります。
ゲーデルの不完全性原理を持ち出すまでもないのですが、論理が完全でない事が判ってる以上、何でも論理に頼ろうとすると当然の如く矛盾が生じますよね。
ただラッセルの矛盾は哲学に近いし、カントールのそれは数学そのものです。
勿論、数学の全領域を集合論の上に構築しようという壮大なロマンは評価すべきですが、冷静に考えると少し野蛮なような気もしますね。
つまり、論理というものは私達が思ってる以上にナイーブであり、再帰的で抽象的でもあるので、パラドクスの罠からは逃れることが出来ないのでしょうか。
私達が”論理的”と呼んでるものは実際は野暮で粗野なんですよね。
だから公理や定義とかでガチに固めるんですが、それでも所詮は生身の人間が構築するもので、矛盾も不完全も誤解も発生します。
ウィズコロナとかゼロコロナとか論理的に見えますが、言葉のお遊び(オモチャ)に過ぎない。事実、今では死語となりつつあります。
ラッセルが主張する集合論の上に数学を構築するではなく、カントールが主張する様に超無限の上に数学を構築する。
閉じた公理体系で超無限の世界に広がる連続体仮説を解き明かそうとする事自体に無理がありそうですが、アインシュタインの相対論と同じく、連続体仮説の強い重力により、公理自体すら歪むんでしょうか。
っていうタモリの友達の輪は集合としては成り立たないのでしょうか?
つまり、”友達の友達”という内包的な表現が矛盾を生むと考えたら?友達の友達であっても友達であるとは限らない。
哲学も数学に負けずややこしい。
数学全体を集合論の上に構築しようとした事に尽きると思います。
数学を生態系としてみれば、様々な生態系の集まりであるべきで、カントールのパラドクスが示唆する様に、集合全体の集合として数学を構築する事自体に無理(矛盾)があります。
数学を集合論の基板上だけで統一しても、それからはみ出す数学が存在し、それは無限の枝を伸ばす。
しかし、それら無限の枝は無限に繁殖するというよりも(宇宙が動的である様に)膨張しながら収縮するという”動的平衡を保つ”と思うんですが。
いやいや、考える程に哲学の罠に陥ってしまいますねぇ〜