昨日の前半に引き続き、マンスフィールドの波乱に満ちた奇怪な生涯(後半)を紹介します。
1963年、30歳を迎えたマンスフィールドは、映画「Promises! Promises!」でとうとうヌードになります。つまり、ヌードで出演する初のハリウッド女優になりました。
共演者のトミー•ヌーナンに説得されたとされてますが。
”もう君も30だろう、肉体で勝負できるギリギリの歳さ。ハリウッドは諦め、ポルノ路線で勝負した方がガッポリ稼げるぜ。モンローを見ろよ、演技派を貫いたが故に、殺されたじゃないか。さあ脱ぎ給え、この業界はバカやったが勝ちなのさ”って説得されたんでしょうか。
ヌード路線とメディアの酷評
事実、マンスフィールドのヌードはPLAYBOYで公表され、雑誌はすぐに売り切れとなった。
お陰で、「Promises! Promises!」は大ヒットを記録し、彼女はその年の興行収入トップ10に名を連ねる。
ただよくよくヌード写真を見ると、肩幅は出っ張り、下半身が貧相に見える。4度の出産で体型が崩れ、顔も少しゴツくなってる様にも見える。しかし、自慢の巨乳だけは健在ですね。
因みに、彼女の胸は、5人の子供たちへの授乳によって大きさが変化した。彼女の最小の測定値は102cmのDカップで、50年代を通してこのサイズだったが。1967年の測定では、117cmのDDカップで最も大きかったと。
事実マンスフィールドは、自慢の胸を首尾よく披露した。事故に見せかけ、乳房や乳首を顕にした事もあり、大女優で豊乳?のソフィア•ローレンも眉を顰める程であった。
事実、パーティー時のマンスフィールドの衣装は、殆ど乳首が見えかかってる。
後に、ソフィアローレンはこの事態を、”まるで乳首が飛び出てきそうな勢いだったわ、それで怖くなって彼女を見つめたの、悪気はないのよ”と振り返ってる。
世界のメディアは彼女のこの売名行為?を即座に非難した。あるコラムニストは、”マンスフィールド嬢が、求められてもいないのに自らの豊満な肉体を顕にする為に、あらゆる機会を利用するのは非常に腹立たしい”と。
お陰で、経歴を通じ、当時のセックスシンボルであったマリリン・モンローとよく比較された。この比較について彼女はこう語る。
”なぜあなたがた(報道陣)が、私をマリリンやキム・ノヴァクと比較するのか解りません。胸の谷間は私がこの地位を得る為に大きな助けになりました。でも彼女たちがどのようにしてそこに辿り着いたのかは知りようもありませんわ”
全く大人のコメントですね。乳房や乳首を故意に露出するパフォーマンスは今や常識となっており、流石の自由の国アメリカも当時はまだまだ倫理や道徳が多少は重んじられてた時代でした。
もう一人の不運なモンロー
マンスフィールドは、映画の役には恵まれていなかったが、ハリウッド内で過酷な競争相手がひしめき合う中で、モンローの最も重要なライバルとみなされていた。
一方彼女は、映画同様に舞台にも立った。前述した様に、ブロードウェイのコメディミュージカル「ロックハンターはそれを我慢できるか?」にも出演した。NYタイムズは、わずかな衣裳をまとった彼女の表現を、”モンローの曲線を持った銀幕のプラチナブロンドの妖婦のようであり、賞賛に値する奔放さ加減”と高く評した。
1957年、26歳のマンスフィールドは20世紀FOXの為に、ヨーロッパ16カ国のツアーに旅立った。彼女は2番目の夫のハージティと共に、「紳士は金髪がお好き」と「バス停留所」の舞台にも立つ。彼女とハージティは映画での配役が不満で、ラスベガスのデューンズで「The House of Love」という演し物に主演。そこでもマンスフィールドは週35,000ドルを荒稼ぎした。
映画の仕事が低迷していた時期でも、彼女のナイトクラブ出演には週に8,000〜25,000ドルの高値がついた。彼女はそれに伴い、世界中をツアーで廻るという多忙さでもあったのだ。
死去した1967年には、ナイトクラブ出演と当時の3番目の夫マット・シンバーが監督した低予算の映画「Single Room Furnished」でも多忙を極めてたという。
お馬鹿な頑張り屋サン?
全く最後の最後まで彼女は、映画の役柄同様に”おバカな頑張り屋さん”を貫いたんでしょうか。それに、IQ163とされる知性の高さは彼女の努力が生み出した賜物だったとも言える。少し悲しい気もしますが。
因みに、マンスフィールドは3回結婚し2回離婚し(3回目は調停)、5人の子供がいた。また、ケネディ兄弟やブラジルの億万長者ジョルジ・グィンリなど多数の著名な男性と、恋愛関係&肉体関係にあったとされる。
34歳で死去した時は、当時の恋人で離婚調停の弁護士サム・ブロディを伴っていた。
晩年の男性遍歴もモンローと全くダブりますが。ケネディの糞兄弟が付き纏ってる所もこれまた最悪でした。それにフランク・シナトラとの2ショットでは、モンロー同様にマンスフィールドの表情も引き攣ってます。
ショービジネスの世界には、ありとあらゆる危険な人種が集まる。そんな中、一人の女性が美貌と豊満な肉体だけで勝負するのは、全くの無謀と言えなくもない。
一方で、私生活においてもマンスフィールドは、モンロー同様に荒れ果ててた。
彼女の最初の娘であるジェーン•マリーは、母親の恋人サム・ブロディを暴行容疑で訴えた。母親のマンスフィールドも娘の虐待を促してたというから笑えない。
その上、この娘もPLAYBOYでヌードになり、親子でヌードというのは、PLAYBOY史上初であったらしい。
2番目の夫との離婚は、夫のハージティが調停を財政的に有利に押し進める為、彼女の子供たちの1人を誘拐した為に、刺々しいものになった。
更に、3番目の旦那はマンスフィールドが31歳の時で、イタリア生まれの映画監督マット・シンバーと結婚した。が、2人は僅か1年足らずで別居、翌年には離婚調停へと発展する。
以後、若いオランダ人の作家ヤン・クリーマーと短い関係を持ったし、1963年には、歌手のネルソン・サルデッリとも親密な関係にあった。ハージティとの離婚が解決したら彼と結婚する予定だと語っている。
マンスフィールドの奇怪な最後
そして、運命の日。恋人のサム•ブロディと共に乗った車がトレーラー後部と道路の間にめり込み、前部座席に乗っていた大人たちは即死した。しかし、後部座席に座っていた子供たちは運良く軽傷で生き残った。
マンスフィールドの直接の死因は、”頭蓋骨が押し潰され、頭蓋と脳が分離した”事によるとされている。
つまり、脳みそが潰れ、口から飛び出したんでしょうか。”クビから上が無かった”という都市伝説は、ここから生まれたんですかね。
36歳で謎の死を遂げたモンローと、僅かに2年早い34歳で壮絶死したマンスフィールド。
”疑惑の死”と”壮絶な事故死”
最後の最後まで二人には共通点と接点が多すぎます。
モンローになれなかったどころか、モンローに近づき過ぎた奇怪で不幸な女といった所でしょうか。
何だか書いてて、不可思議な気持ちになりました。
普通にヤッとけば、いや手を抜いてやっとけば、結構な女優人生を歩めたとも思うんですが。
何でもやりすぎは百害あって一理なしですね。
コメントどうも有難うです。
でも肉体派女優にしては相当の頑張り屋さんですよね。身体一貫でここまで成し遂げたんですから。
5人の子供を設けても美貌は健在です。
でも私生活はハチャメチャだったようで最後は全く笑えない死に方でした。
らしいといえばそれまでですが。
口から脳みそが飛び出すという事は、交通事故で偶に耳にするんですが。マンスフィールドも同じ様なケースだったんでしょうか。
頭がダッシュボードの上に乗ってたという都市伝説もそこから生まれたんでしょうか。
死ぬ時は穏やかに死にたいですね。
モンローの時もかなり激しい殴打のあとがあったらしく、骨折も何ヵ所かあったらしいです。
マンスフィールドもモンローも、壮絶な死という点では、全く共通してます。ただマンスフィールドには子どもがいたという事だけですか、違うのは。合掌。
モンローが死んで、ハリウッドのセクシー路線が下火になり、その煽りをマンスフィールドがモロに喰らった感じで可愛そうですが。
でも、子供5人を抱えながらよく頑張った方です。私にはとても真似出来ません。
彼女に関する自伝本が出てないのが唯一残念です。
「 事実マンスフィールドは、自慢の胸を首尾よく披露した。事故に見せかけ、乳房や乳首を顕にした事もあった。大女優で豊乳?のソフィア•ローレンも眉を顰める程であった。事実このパーティー時のマンスフィールドの衣装も、殆ど乳首が見えかかってる。」
確信犯ですね。マンスフィールドは!