2020年のノーベル文学賞が8日発表された。日本人の中には、今年こそは村上春樹で当確だろうと、思った人も多い筈だ。
事実、今年は本命がいなく、混戦が予想され、イギリスのブックメーカーのオッズでは村上春樹は3位につけていた。
しかし蓋を開けてみれば、大方の予想は外れ、米国の詩人、ルイーズ・グリュックさんに授与された。
ノーベル委員会のアンデルス・オルソン選考委員長は、”飾り気なき美しさを伴って個人の存在を普遍化する彼女独特の詩の編み方に対して”贈ると褒め称えた。
アメリカの現代史に詳しい専門家は、”現代社会を切るといった作風ではなく、身近な物を題材に普遍的なものに繋げる”という、地道な手法を続けてきた事が評価されたと説明する。
しかし、文学賞を贈るスエーデン・アカデミーを巡っては17年秋、会員の夫の性的暴行疑惑が浮上し、世論の反発と組織改革をめぐる内部の対立により、18年は同賞発表を見送った。故に、19年は18年と19年の2年分を一度に発表していた。
因みに、イエール大教授でもあるグリュックさんは、アメリカ現代詩で最も著名な詩人の1人とされる。93年に「The Wild Iris(野生のアヤメ)」でピュリツァー賞を、2014年には「Faithful and Virtuous Night(誠実で清らかな夜)」で全米図書賞を受賞している(朝日デジタルより)。
平和賞と同様に、この文学賞も結構怪しいとされるが、案の定、エロいスキャンダルが起きていたのだ。何だかこの時点で・・・と思ったが、そういった諸々を払拭する様な、無難な選考であった様に思えた。
でも同じ詩人なら、私めご贔屓のポール・オースターが上だと思うのだが。因みに、オースターはピュリツァーも獲ってない。
ノーベル文学賞は選考委員のオモチャ?
カズオ•イシグロの「信頼できない語り手」の記事の中で描かれてる様に、ノーベル文学賞が”最も優れた小説”に与えられるのではなく、”最も優れた作家”に与えられるのでもないとしたら?
サプライズこそが、受賞者選定に一番重要な事項だと考えているのだとしたら?
それは、文学賞を選考委員のオモチャにしているとしか思えない。
そもそもこんな”選考員のオモチャ”としてのノーベル文学賞なんていらない!と言えば言いすぎだろうか。
三島由紀夫もトルストイも受賞していない、その上、首を傾げる様な受賞者もいるノーベル文学賞なんて、話題性優先の芥川賞と同様に、本当に必要なのだろうか。
因みに三島由紀夫は、川端康成をノーベル賞に推薦してから、”今回、川端康成が獲ったら次は大江健三郎で、自分はもうない”と悔やんだらしい。
実は、三島は川端に”君はまだ若いから、今回は私に譲ってくれ”とせがまれ、文学賞を譲ったとされる。以降、計った様に彼の人生は狂ってしまう。
でも2017年のカズオ•イシグロの掛け率はかなり低かったから、天国にいる三島由紀夫も受賞者の名を聞いて、さぞ慌てたでしょうな(笑)。
以下、”エディタを起ち上げながら”さんのブログを参考です。
ノーベル文学賞の腹黒い悪評の歴史
以下で述べる様に、ノーベル文学賞には、論争の激しい受賞や悪評の高い冷遇の歴史がある。実際ノーベル委員会は、政治的文学的な理由から明らかに多くの著名な作家を無視してきた。
1901年から1912年にかけ、委員会はノーベルの遺言の”理想の方向”を、”高尚で健全な理想主義”と解釈し、レフ•トルストイ、ヘンリック•イプセン、エミール•ゾラ、マーク•トウェインらを排除した。
トルストイもアントン•チェーホフも文学賞を取れなかった。その理由として、スウェーデンの歴史的なロシアに対する反感がよく言及される。第一次世界大戦中およびその直後、委員会は非戦闘国の作家を支持した。
受賞者がヨーロッパや特にスウェーデンに偏ってる事は、地元スウェーデンの大手新聞からも批判されている。
事実スウェーデン人の受賞者は、アジア全土の受賞者よりも多い。2008年、アカデミー秘書官のホーラス•エングダールは、”ヨーロッパは依然として文学界の中心である。米国はあまりにも孤立し、あまりにも隔離されてる。彼らの本は十分に翻訳されておらず、文学の大きな対話に参加していない”と表明した。
2009年には、エングダールの後任のピーター•イングランドは、”殆ど言語の分野では、ノーベル賞を受賞出来る作家がいるが、それは米国やアメリカ大陸でも同様である”と述べ、この所感を否定し、”私はこれは問題だと考えている。我々はヨーロッパで書かれた、またはヨーロッパ風の文学により簡単に関わろうとする傾向がある”と、選考のヨーロッパ圏への偏りを認めた。
ノーベル文学賞は翻訳力で決まる?
毎年毎年、村上春樹が獲る獲ると煽られ、日本人の多くはウンザリだろう。事実、獲る獲ると言われながら何十年も受賞にいたらず亡くなった名作家たちが何人もいる。ウンベルト・エーコしかり、フィリップ・ロスしかり。
つまり世界には、それほど沢山のノーベル賞有力候補がいるのにだ。
だから最初に言ってしまうと、当面、村上春樹が受賞する確率は高くないと思う。
以下、”ノーベル文学賞は「世界翻訳大賞」?”より抜粋です。
なぜなら、ノーベル文学賞という世界最高峰の文学賞は、事実上、「世界翻訳大賞」だからだ。
ノーベル文学賞の受賞資格は、作家の国籍や使用言語を問わない。とはいえ、スウェーデンアカデミーの審査員18人全員が、世界中の言語に通じてる筈もない。
つまり、翻訳したものを読む。当然、候補には、英語を筆頭に、フランス語やドイツ語やスウェーデン語が多い。
因みに受賞者数で言えば、英語30人、仏語15、独14、スペイン11、スウェーデン7、露6、アジア圏では日本と中国が2人ずつで、ポーランド語の5人にも及ばない。実質、日本語本は翻訳されてないとも言える。
事実、審査員の殆どは、1968年受賞の川端康成の日本語も、1994年受賞の大江健三郎の日本語も、じかには読む筈もなく、翻訳されたものを読んで評価されたのだ。
故に、文学賞の栄冠を勝ちとるには、作家本人だけでなく、翻訳者の技量や力量が重要になる。事実、川端康成は授賞式で、”私の小説の翻訳者(サイデンステッカー)にも半分の名誉を”と言った。
翻訳の”力”とは訳文の巧拙だけでなく、その作品を世にアピールする影響力や発言力が大きい事も大切な要素になる。
政治色の強いパブロ・ネルーダというチリの詩人は1971年に受賞したが、それは選考委員の中に彼の作品の翻訳•研究者がいて、強烈に推薦したというのは、よく知られた話だ。
しかし、村上春樹の英訳者たちに問題があるという話ではない。英米で出たハルキ本の書評を読めば、翻訳者の仕事ぶりを褒めてるものをよく見かける。
村上春樹は文学賞を獲れないのか?
この問題は多くの評論家が論じてるが、1つには、彼の”マジョリティなアメリカ気質”に関係があるとも言われる。
村上春樹は若い頃から、米国のフィッツジェラルド、サリンジャー、ヴォネガットなどの小説家に心酔し、ジャズやロック、映画やファッションに至るまで、アメリカンポップカルチャーの大きな影響を受けている。
率直に言えば、ノーベル文学賞はヨーロッパの文学を称揚する為に始まったし、審査するスウェーデンアカデミーはアメリカが好きではない。それには、米国が強大な英語帝国で、他国語の文学を殆ど翻訳しないし、読まない、という言い分がある。
上述した様に、伝統あるヨーロッパ文学から見れば、憎きアメリカ英語帝国め!大きな顔しやがって!という気持ちがないではない。
ノーベル賞が始まった20世紀初頭は、米国はヨーロッパから見たら文化後進国で、当時は米国にも気前よく文学賞を授与していた。
しかし第二次大戦が終り、アメリカが経済的にも政治的にも巨大化すると、態度が変わった。戦後75年、アメリカから5人の受賞者が出てるが、移民系作家が2人(フォークナー、スタインベック)、黒人の女性作家が1人(トニー・モリソン)、直近はミュージシャンのボブ・ディランである。
特に、アメリカ白人で、男性で移民系でない作家、つまり世界で非常に強いマジョリティの立場にある作家は、ヘミングウェイを最後に、66年ほど授賞されていない。
つまり、村上春樹が”手本”としてきたのは、そうした米国白人のマジョリティ系の男性作家たちだ。故に、ブラックカルチャーや人種やジェンダーのマイノリティ的視点に欠ける点もやや気になる。
しかし推測にすぎないが、スウェーデンアカデミーは、”人がいない所にボールを投げこむ”のが得意なのだ。
故に、”村上春樹受賞!”という朗報もいつ入るかわからない。
以上、鴻巣友季子嬢のコラムからでした。
最後に〜ハルキと2人のヨウコ
結局スウェーデンアカデミーは、ピュリッツァー受賞経験者のアメリカの白人女性詩人という、無難な所に石を投げ入れた。
これは明らかに、スウェーデン・アカデミーの性的スキャンダルを大きく意識したものと言えば、露骨な誹謗中傷となるだろうか。
女性作家と言えば、”ポスト春樹”として小川洋子と多和田葉子の2人の”ヨウコ”を、鴻巣氏は挙げている。
今の時代、マジョリティの立場で、露骨に歪んだ現代社会を批判するよりも、マイノリティの立ち位置で、詩的に優雅にユーモラスに描いた方が、アカデミーの受けはいいのかもしれない。
”ノーベル平和賞はいらない”程ではないが、どの国の作家であろうが、女性であろうが男性であろうが、マイノリティであろうがマジョリティであろうが、”最も優れた小説”に”最も優れた作家”に与えられべきであると思うのだが。
”ハルキと2人のヨウコ”が3人揃ってノーベル文学賞受賞という隠し玉は、果たして存在するのだろうか?
そろそろスエーデンアカデミーも、そういったオチを披露してほしいもんだ。
でないと、”自然科学系3部門だけで他は要らない”という声がここまで露骨に聞こえてきそうだ。
なぜなら文学というものは主観のデフォルメされた成れの果てだから。
そういう目で見れば、文学自体が既にいかがわしいものとも言える。
それを、さらにいかがわしさを極めた人たちが審査して出すものだから、どの文学賞もデフォルメのお化けだと思う。
村上春樹の作品は女性の受けのツボを心得ているけれども、選考委員達から見たらデフォルメの迫力が足りないのかもしれない。
”ハルキ節”と言えばそれまでで、全てを読んだ訳でもないんですが、日本では村上春樹は世界で一番名の売れた作家です。
ノーベル文学賞くらい何とかならんものかとも思いますね。来年当たりは期待したいんですが・・・
「ロンググッドバイ」なんか、カッコ良すぎます!
チャンドラーの作品に関しては、清水さんの翻訳に慣れてるせいか、村上氏の翻訳を読んでもあまりピンと来ないんですが、「遠い太鼓」は涙がでました。ノンフィクを書かせたら、彼はほんと凄いです。
ただ、アメリカ受け過ぎる為にノーベル賞が壁になってるみたいですが、ピュリッツァー賞でもとってほしいもんですね。
転んだも書いてたけど、受賞者のメンバー見たら犯罪者ばかりじゃね。
平和賞に比べたら文学賞は全然まとも。
ただ今年受賞した女性詩人はピュリッツァー賞をとってるからノーベル賞は余計だと思ったけど、他にいなかったのかね。村上春樹が獲ったとしても誰も驚かないと思うけど。
正直、グレタでなくてホッとしてます。あの気狂い少女にやるくらいなら、AKB48の方がずっと平和に貢献してますよ(笑)。
これからのノーベル平和賞は健全な?ボランティア団体とかにやった方が、後腐れはないですかネ。
そんな中、村上春樹が一人気を吐いてるのは、気質がアメリカ寄りだからでしょうか。
北欧アカデミー受けする作品を書けばとも思いますが、プライドが許さないんでしょうか。本当にもうそろそろと思いますよね。
順番的にはそろそろでしょうし、でも彼よりも凄い作家でも、もらってない人も多いので何とも言えませんが。
こればかりは神様からの贈り物でしょうか。