前回は、”マイケル•サンデルの欺瞞”を教育とパターナリズム(父権主義)の観点から探ってみました。そして、それが”欺瞞的”パターナリズムである事を突き止めた。
そこで今回は、双方向の議論にメスを入れ、”答えを出そうとしない、いや出させない”サンデル氏の幼稚なトリックを暴こうと思う。
哲学系は、抽象過ぎて出来るだけ拘りたくないが、父権主義という視点から”マイケル•サンデルを斬る”というのも斬新で面白いかなと。
以下、今回も同じく「答えを示さない「白熱教室」は欺瞞である」(橘宏樹)から抜粋です。
橘氏の”オレはそういう欺瞞を許さない”的コラムはかなり理屈っぽいですが、何か”白熱”する何かを感じます。
双方向の議論の中に潜む”仕掛け”
結局、双方向のやりとりによる参加意識を高めるこの”仕掛け”は、インプットの有効な補助にすぎない。
例えば、マイケル•サンデルの「白熱教室」であれば、学生に思考や発言を促していも、創造性や独自性を育むというより、哲学史の歩みを追体験させているに過ぎない”出来レース”的な構成とも言える。
全く私めと同じ考えです。最初から仕掛け(答え)が用意されてるんですね。
しかし、勘や洞察力に優れた学生からすれば、白熱教室の問いにはこう答えればこう言うとの限界があり、反論には幾つかあり、それぞれはこう答えるだろう云々、と論理的な展開の”先が見える”ので、まともな発言をしようとすると、1回の発言が非常に長くなる。
極論すれば、教授の最後の”まとめ役”を代弁させられる羽目になる。
裏を返せば、迂闊で断片的な発言ほど教授の授業意図に沿う発言に見え、賢く博識な学生ほどその発言は控えがちになり、周りから敬遠される。
つまり、あの大人気講義の「白熱」は、全体として”仕組まれた茶番”にも見えてくる。
アウトプットを促しつつ、アウトプットを訓練してる訳でもなく、”押し付けてはいないよ”という体を取りつつ、”計算ずくの誘導”がある。
自分の頭で考えさせてる様であっても、創造性や個性の育成よりは、予め用意された風呂敷の中に包み込もう(sack)としてる感がある。
因みに、纏める(wrap)も丸め込む(sack)も”黙らせる”とか”覆い隠す”の意味がある。
そういった点では、議論を纏め上げ包み込むこの仕掛けが”欺瞞的”にも見えるので、橘氏はこれを揶揄的に”欺瞞的パターナリズム”と呼ぶ。
疑うだけで決断力は必要ないのか?
更に、こうしたインタラクティブ系講義では大抵、教授はその問いに対し、自分の答えを述べない。
いや述べたとしても、世間一般で見落とされがちな論点や相対化されるべき固定観念を指摘したりするに留まりがちだ。
自著や講演など他の機会においてはともかく、授業内では、整理したり、纏めたりはしても、総合的な”オレの答え”を言わない。
何故ならこうした授業は、暗黙の内に前提にしていた概念や偏見の存在に気づかせる事、社会通念を疑う事、つまり”懐疑主義”に目覚めさせる事を主眼にしてるからだ。
確かにこの姿勢は、大衆の中に思考停止しない人間を増やし、主体的な知性を啓蒙する市民教育において非常に効果的だ。
また、リサーチ結果の裏付けを得て、自説を主張する社会学や経済学等とは異なり、政治学や哲学や歴史学などの解釈をめぐる類の学問においては、”懐疑主義こそが永遠の本質”とも言える。
しかし、この懐疑主義への覚醒を主眼とした欺瞞的パターナリズム教育は、すでに十分懐疑的な知性に対するエリート教育という点では、どのくらい機能するのか?
特に高学歴の人材ほど、組織の中でリーダーシップを担わされがちであり、最高学府の教育としては、”理性の目覚めを促す”事だけで十分だろうか?
つまり、リーダーに必要な、ある結論に必ず付随する限界や欠点を認識しながらも決断を行う力や、その負の側面をも引き受け、何とかマネジメントしていく力は、懐疑主義に覚醒するだけでは養えない様に思える。
世の中に真実なんてない事は常識だ。最高学府は鋭い評論家を輩出するだけでよいのか?”オレの答え”を出す訓練はしなくてよいのか?
事実、サンデル氏は、自身初の著書「リベラリズムと正義の限界」で、”ロールズの正義論”を厳しく批判し、一躍人気者になった。
勿論、彼の「白熱教室」はインプット効果にて優れた授業かもしれないし、決断力が育まれる事もあろう。また、”懐疑主義には決断をしないという決断がある”という言い方もできる。
そもそもハーバードには他にも、決断力を養う授業が沢山ありそうだが・・・
ネオ•パターナリズムと”オレの答え”
この欺瞞的パターナリズム教育が必然的に持つ、”決断する姿勢は示さない”という限界に対抗する1つの解答は、”纏める際にオレの答えを言う”点にある。
オックスフォードの社会学の授業では、”ジャーナリストと社会学者では何が違うか?”という問いが教授から出される。
そこで学生間でひとしきり議論があった後、教授は最後に、”なるほど、それぞれもっともだ。因みに私は、その違いは理論を志向するかしないかにある”と、はっきり述べる。
また、”社会学とは何か?”という議論においても同様に、”私は社会を描写する(represent)のが社会学である”と、ハッキリと回答する。
この手の問いかけにおける”まとめ(wrap)”では、欺瞞的パターナリズム教育では、”誰々はこう定義し、彼はこう定義してる”などと、あれこれ紹介し、それぞれを品評するに留まる。つまり、上手く煙に巻く(sack)だけなのだ。
そういう”欺瞞的”な授業に慣れすぎてた橘氏にとって、オックスフォードのやり方は、非常に斬新で衝撃的だった。
思わず、”では先生ご自身は~とお考えなのですね?”と聞き返してしまった。勿論、教授は”ああそうだ”とハッキリと答えた。
”引用とは単なる演出的戦略に過ぎない”という教授の言葉も斬新だった。懐疑主義の迷路の中で目安を失った、橘氏の迷いを消してくれたのもこの言葉だった。
そういう私もサイトからしばし引用するが、その目安は決まってはいない。ブログも論文も賞味期限がある。
つまり、早い者勝ちなのだ。”素早く見切ってさっと終わらせ、まずは結論を出す”事が重要で、詳細は二の次なんです。
”オレの答”を持つ大人はいるのか?
現代は、ネットで断片的知識だけでなく、ある程度整理された知識も容易に手に入る時代になった。
しかし現実には、バラバラに都合のいい事を述べ散らかし、それぞれの言い分を丁寧に噛み合わせ、構築された議論を見つけるのは、相変わらず難しい。
故に、飽和する情報の処理や理解及び解釈の仕方、つまり懐疑主義の重要性も増えてくる。故に、現代にて欺瞞的パターナリズムによる教育の需要は非常に高い。
その先で、オトナがより妥当な(暫定的)結論を下す事の意義や難しさもまた増している。しかし、結論を出す力はどの様に養えばいいのか?高等教育ではそれを養っているのか?そもそも高等教育で養うべきなのか?
かつての日本には子を想うが故に、問答無用に結論を押し付けてくる”昭和な頑固オヤジ”というタイプがいた。まさに文字通りの父権主義だ。
家族ドラマでは大概、オヤジ側が口下手すぎて、若者はそれに最初は反発するものの、親父の背中から学んだり、後に真意を理解する。そして最後には、オトナのバトンが子に受け継がれていく。
他方で、家庭内コミュニの欠如や日本経済の失速と共に、居場所や自信を喪失した親父たちが増える一方、混沌を生き抜いた戦中•戦後直後派は後退した。
団塊世代やポスト団塊世代からバブル世代へと世代交代も進み、現役の親父たちのメンタリティにも、世代の原体験の違いに起因する変化が見られる。
男女父母いずれにせよ、未熟な若者と正面から向き合い、コミュニケーションを取り、自分で学ぶ力を培わせつつ、要所で説得力ある”オレの答え”をガツンと示す。
そうした決断者の姿を見せてくれる素敵なオトナは今、日本社会に足りているのか?と、橘氏は曇天の続くイギリスの冬空の下、とめどなく悶々と考えてしまうのだ。
以上、2回に分け、理屈っぽくなりましたが。単に、サンデル•マイケル批判と捉えられたくないので、長々と抜粋しました。
哲学の限界と”答えなき授業”
哲学も政治学も社会学も歴史学もそれに文学も、そもそも自明な答えというのが存在しない。いや存在したとしても見え難いし、異常なまでに抽象的でハッキリとした明確な形を持たない。
そんな抽象的で曖昧な状況の中、オレ的答えを出そうとすると大きな誤解を生む事がある。最悪、危険分子とか?右派とか左派との一言で締め括られる。
数学や自然科学なら、明確な答えが大方決まってくるので、証明さえ完璧にやれば、誰も文句は言えない。自明な答えが導き出せなくても、近似を探る事はできる。
故にその解答に、危険分子も右派も左派も、そして曖昧さも懐疑さもない。
サンデル氏の授業は結局、”答えなき虚しい授業”なのだろうか。いや、”煮え切れない議論”なのだろうか。
答えを出さない事で、懐疑主義を蔓延させ、神秘のベールで覆い尽くし、自らの存在感を一気に飛躍させる。
答えが出ないから、その議題が難しいと思わせ、難しいから答えが出ないと思わせる。
故に生徒も受講者も、とても難しい議題を討論してるという錯覚に襲われる。悩むだけ悩ませておいて、答えを出させない。
これこそが痴弱なサンデル•マジックなのか?
一見、”知の覚醒”とも見えるが、悩むだけならヘビでも出来る。答えを出さなくていいならトカゲでも出来る。と言ったらサンデル氏に失礼か・・・
最後に〜結論なき白熱教室
日本の数学の最大の弱点は、とても優秀なんだけど、証明や理解ばかりに重きをおき、予想や発見をしない事だとされる。
勿論、数学において証明や理解は必須条件である。しかし、予想や発見がない限り先へは進まない。「白熱教室」の結論の出ない議論と同じで、先へ全く進まないのだ。
結局、残るのは薄くなった髪の毛と懐疑と議論と眉間のシワだけだろうか(笑)。
かつて、インドの偉大な数学者ラマヌジャンは、証明という概念に拘らなかった。故に、予想ばかりに集中した。当初は大半が外れてるとされたが、後の研究により歴史的な発見が数多く見つかっている。
しかし、その中の”新しいゼータ関数の発掘”というラマヌジャン予想こそが、現代数学を大きく飛躍させた。
つまり、懐疑と思考だけでは前には進まない。批判を受けても答えを出そうという意欲こそが、人類の知能を大きく進化させるものだと思う。
この事は、ニュートンやアインシュタインら、偉大な知の巨人たちが既に証明してるではないか。
そういう意味では、マイケル•サンデルの「白熱教室」は、人類の知を後退させる様な気がしないでもない。
そう思うのは私だけだろうか?
そうだとしたら、答えは要らないのではないでしょうか。サンデル氏が答えを出せば、それに対して 「疑問を持つこと」 もまた、授業の目的でしょう。
疑問を持つこと自体に疑問を持つというこの矛盾。非常に面白いですね。
でも、答えを出さないのは明らかに詐欺ですよねぇ〜。
十分議論したんだから、何か答えを出せよって神の声が聞こえる。
でも、最近の哲学者ってみんなこんなもんじゃね。
だから、永遠に批評家なのです。
また逆に、行動する人は批評をしません。なぜなら、批評する時間があれば、それをよりよい物を作ることに注ぎますから。
サンデルが得意とする(哲学的)懐疑主義も、ベンサムの合理主義を経由し、科学的懐疑主義にとって変わられます。
結局、古い懐疑主義に拘ってるんですかね。
でも、ビコさんの方がマイケルサンデルよりもずっと凄い哲学者になれそうです(笑)。
ハーバード出身をひらけかしたいだけよ。
それに、ジョーダンやイチローの稼ぎにケチをつけてるのね、よほど人種差別主義なのかしら?
転んだサンもこんなハゲと馬鹿を相手にすると、悪い病気がうつってよ(^o^)
大金を払って入った大学ですもんね、威張る気持ちも判ります。
でも哲学如き?でジョーダンやイチローレベルの稼ぎを得ようと考えること自体無謀なんですが。
Hoo嬢のご指摘のように、既に悪い病気が移ってます。でなきゃこんな批判ブログは書きませぬ(笑)。