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ラッセルのパラドクス(中盤)〜ツェルメロが指摘した悪夢の回避とは

2023年10月12日 16時02分21秒 | 数学のお話

 「前半」以来、昨年の11月ぶりですが、大まかに振り返ってみます。
 「ラッセルのパラドクス」では、命題(初期条件)を真か偽で判断した場合、どっちつかずの矛盾が発生する。つまり、条件を野放しに定義すると、素朴集合論の中に”ラッセルの矛盾”が生じる。有名な例としては、”床屋のパラドクス”や”ゼウスのパラドクス”等がある。
 この矛盾を回避するには、厳密な公理を事前に準備し、数学の厳密さで矛盾の元となる古典的な曖昧さを削除する。

 そこで、集合を表現する方法として”外延的表記”(名簿表記)と”内包的表記”(属性表記)があります。前者は要素の外観であり、後者は要素の性質です。
 つまり、外延的表記では要素の属性の表現が難しい集合を、内包的表記では形式的(論理的)に明確に表現できるシンプルな記法と言えます。
 これら2つを公理や定義で言えば、内包公理は”包括原理”とも呼ばれ、”命題さえ決まれば(それに対応する)集合が必ず決まる”事を言います。つまり、”任意のP(x)に対し、P(x)を満たす元xの集合A={x∈X|P(x)}が存在する”と定義できます。単に、”内包記号∈を使って定義する集合”としても間違いじゃないとは思いますが・・・
 また、外延性公理とは”集合はそれに含まれる要素(元)により一意的に定まる”と主張でき、”全く同じ要素からなる2つの集合は等しい”となりますね。

 カントールの素朴集合論はこの外延と内包という2つの公理でまとめる事ができますが、ラッセルのパラドクスでは、”ナイーブ”な内包公理を無差別に使うと矛盾が発生する。
 故に、”自分を要素としない集合の集合”という悪循環を犯しそうな内包公理を排除しますが。その代わりに、(以下で述べる)制限された内包公理である分出公理を使います。
 つまり、”自分を要素としない集合の集合”という曖昧な集合ではなく、何か既知の集合を全体集合と考えて固定し、その要素の集合を”内包的定義で定める事で矛盾を回避する”というものです。
 因みに、哲学でも使われる以下の2つの言葉ですが、内包は積集合(∩)で、外延は和集合(∪)でも規定されます。

 そこで今日は、この不可解なラッセルのパラドクスをどうやって回避するかをテーマにします。


古典的で不可解なパラドクス 

 「前半」で寄せられたコメントに、素朴集合論のパラドックスとして、①順序数全体の集合(選択公理)と②集合全体の集合(カントールのパラドクス)と③ラッセル集合(自己言及性のパラドクス)の3つが指摘されてました。
 特に2番目の「カントールのパラドクス」は”元の集合から全ての部分集合(べき集合)を書き出すと元の集合をはみ出す”事から矛盾が起きるんですが、ラッセルのパラドクスよりもずっと論理的でクリアですね。
 これは例えば、X={a,b,c}とするとXの集合からなる全ての部分集合は{∅}{a}{b}{c}{a,b}{b,c}{a,c}{a,b,c}と8(=2³)個となり、元の集合の3つの要素を大きく超える。つまり、集合全体の集合”集合全体⊂集合”に明らかに矛盾する。
 また、1番目の選択公理は公理系集合論が登場し、ツェルメロにより付け加えられました。
 これは、”無限集合の要素は選択する方法すら特定出来ない”という明白なる”選択原理”に関するパラドクスですが、カントールの連続体仮説の研究で順序数(基数)を扱う上で重要な問題として指摘されてはいました。

 この”選択公理”はツェルメロが、全体集合(の集合)はカントールが生んだ数学的逆理(という原理)とも言えますが、ラッセルのパラドクスだけが”悪循環を招く”なんて揶揄されるのも理解できなくもない。
 事実、ラッセルが素朴集合論を自己言及性を用いて、その矛盾を(論理的集合論を完成間近に仕上げていた)フレーゲに指摘したお陰で、数学界に大きな混乱(悪循環)を招く結果となります。
 (後でも述べますが)3番目の「自己言及性のパラドクス」も元はと言えば、紀元前6世紀のクレタ人哲学者エピメニデスが作ったとされる「嘘つきのパラドクス」に由来する。勿論、同じ哲学者であるラッセルが彼を知らない筈がない。
 その後、似た様なパラドクスが次々と指摘され、そして、ラッセルのパラドクスの行き着く先には、”無差別に全体集合(全てを含む集合)を定義しても、そんな集合自体が存在しない”という矛盾が待ち構えます。
 これはカントールの全体集合のパラドクスにも繋がりますね。
 つまり、どんな集まりも無制限(素朴)に集合とみなせば、悪循環と混乱を引き起こす。
 カントールを始め、多くの数学者も薄々と感じていた不可解で古典的パラドクスですが、あえてラッセルは公表した。

 同じ事は、カントールと並び称される天才ゲーデルにも言えるでしょうか。
 ”数学が完全ではない”事は昔から分かりきっていた事ですが。かつて、”数学の巨人”ガウスは混乱を回避する為に、複素平面や非ユークリッド幾何学の発見を敢えて隠し通しました。
 数学は条件(公理)をつけてこそ初めて答えが導ける。しかし、あえてゲーデルは数学を(公理的ではなく)一般的な視座から捉えたが故に、「不完全性定理」という大掛かりなタイトルの見出しで公表しました。
 ラッセルの指摘も、その数年前にツェルメロが発見してましたが、”素朴集合論には当り前のように存在する矛盾”だと理解してたから、あえて隠していた(多分)。
 故に、ゲーデルの発見もラッセルの指摘もガウスから見れば、”幾らでも書き出せる”不可解な指摘に思えた事でしょう。

 数学を哲学という一般論で語れば、数学は哀れであります。故に、ラッセルやゲーデルが”論理学の大家”なんて持て囃される事には、少し抵抗がありますが、一方で的を得てるとも言えますね。
 愚痴はこの辺にして、先へと進みましょう。


パラドクスの回避の為に

 ラッセルの時代には、”何をもって集合と呼ぶ”かがはっきりしていなかったので、ラッセルの議論は集合論の矛盾を指摘するかに見えた。が、公理的集合論の整備が進むと共にともに、(素朴だが)古典的なラッセルの集合を許容しない体系が構築された。以下、前回同様にWIISさんのコラムを参考にまとめます。
 つまり、ラッセルのパラドクスを解消するには、”自分自身を要素として含まない(論理式で言えば、x∉x)集合の集合であるラッセル集合Rは集合でない”と考えた。
 これは、R={x∈U|x∉x}とR(⊂U)を内包的に定義すれば、矛盾が発生する事からも理解できますね。
 つまり、素朴集合論では集合を保証する”内包公理”から矛盾が導き出せたとも言えます。
 因みに、x∉xの否定であるx∈xを加えた集合は(選択公理を加えた)ZFC集合論では、基礎公理(空でない集合は必ず自身と交わらない要素を持つ)によって否定される。
 故に、”内包公理(包括原理)を制限する事で矛盾を回避する”試みがなされた。

 そこで、ラッセルのパラドクスを回避する方法として、集合を公理主義的に定義するやり方がある。つまり、幾つかの命題を公理として定め、それらの”公理を全て満たす対象だけを集合として認める”やり方です。
 つまり、集合論の公理は通常の数学を集合論の上で展開する為に、十分なだけの集合の存在を保証しつつ、パラドックスを発生させる集合は構成できない様に慎重に設定する必要がある。
 そのやり方の1つに、ZF集合論(ツェルメロ=フレンケル集合論)がある。

 このZF公理論では、集合という概念が満たすべき条件を複数の公理として定めるが、その中でも分出公理と呼ばれる公理が重要となります。
 これは、ZF公理系を満たす集合Aと命題関数P(x)をそれぞれ任意に選んだ時、B={x∈A|P(x)}と定義されるBもまた集合として存在すると定める公理です。但し、A={x∈X|P(x)}でしたね。
 つまり、分出公理におけるP(x)は任意の命題関数であり、ラッセル集合を規定する命題関数x∈xをP(x)として採用する事もできる。これは(ツェルメロ的には)”内包公理を分出公理に弱めて使う”と言い換えれます。
 また、分出公理における集合AはZF公理系を満たす集合であれば何でもいいが、ここではラッセル集合を規定する全体集合Uである”あらゆる集合を要素として持つ集合”を考えます。

 以上より、このような”全体集合UをZF公理系を満たす集合”と仮定する。
 この時、分出公理により、B={x∈U|x∉x}と定義されるBは集合となり、このBは(内包公理を許す)ラッセル集合に他ならない。
 故にBの定義より、任意のx∈Uに対し、”x∈B⇔x∉x”ー①と、その逆をとった”x∉B⇔x∈x”ー②が成り立つ。
 ここで、「前回」でも述べた様に、全体集合Uの定義よりBはUの要素となる。一方で、Bの定義よりBはUの部分集合となる。故に、Uの要素であるBは、Uの部分集合であるBの要素か、否かのどちらかですね。
 そこで、B∈Bの場合には①によりB∉Bとなり矛盾。一方で、B∉Bの場合には②によりB∈Bとなり矛盾。
 よって、いずれの場合も矛盾が導かれ、最初の仮定である”UがZF公理系を満たす集合である”事が誤りである事を意味します。

 つまり、ZF公理系では、全体集合Uは集合とみなされない。Uが集合とみなされないのだから、Bの様な集合、すなわち(内包公理を許す)ラッセル集合も定義できない。
 故に、ZF公理系では、ラッセル集合は集合とみなされないから、ラッセルのパラドクスは起こり得ない。
 以上の話をまとめると、命題関数を用いて集合を無制限に定義するとラッセルの矛盾が生じるが、公理系集合論では内包公理を制限する事で素朴系集合論のパラドクスが回避できた。
 勿論、命題関数から集合を内包的に定義する事で常に問題が起きるとは限らないのだが・・・
 少し長くなったので、今日はここまでにします。
 次回(後半)では”嘘つきのパラドクス”を紹介して、終わりにしたいと思います。



2 コメント

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古典的パラドックス (paulkuroneko)
2023-10-13 06:49:19
ゼウスのパラドックスみたいな
昔ながらの矛盾や不合理を現代数学の公理で固め、矛盾が出ないようにする。

数学が抽象的で堅苦しいのも
そうした矛盾や曖昧さを発生させなくする為なんでしょうね。
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paulさん (象が転んだ)
2023-10-13 07:22:32
古典的素朴集合論のパラドックスに関しては
元々はツエルメロが発見してたんですが、ラッセルは叩かれるのを覚悟で敢えて公表しました。
そのラッセルは集合論で数学の体系を構築しようとしましたが頓挫します。
同じように、カントールの素朴集合論に端を発する連続体仮説ですが、やはり壁にぶつかり、ラッセルに協力を求めた時は、既に精神を病んでました。
こうした数学の抽象性は、数学者の思考を徹底的に追い詰めてしまうんですよね。

いつも、コメント有り難うです。
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