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お茶に対する思いやアプローチの仕方は千差万別だ。
あるお茶好きの作家さんが中国茶ムックのいつもどうやって中国茶を入れているか、という取材に答えて
「茶藝は人に披露するものではありません」と書いていたのを目にしたことがある。
当時の中国茶ブーム、茶藝ブームへ苦言を呈した発言なのかもしれない。
(私は「いや、茶藝は披露するものでしょ」、と突っ込みを入れたのだが)
私は客人の目の前でお茶を入れ、そのお茶をその場で一緒に楽しみ、
話に花を咲かせる茶会形式はなかなかいいシステムだと思っている。
しかし、そこに茶藝が必要であるかと問われれば、「不要」である。
茶藝とはあくまでイベントや茶館などで“表演”するもの、
即ち大勢の観客に見せて楽しんでもらうものだと理解している。
美しい所作は見ていて心地いい。
優雅で目を引く茶藝は中国茶の普及にも役立つだろう。
私は茶藝自体を否定するものではないが、
お茶を美味しく入れることと茶藝には相関関係があるとは思っていない。
もちろん茶藝の達人の中にお茶入れの達人はいるが、
茶藝の達人だからお茶入れの達人になれるという図式はないのだ。
ベテラン茶藝師さんの中にも全然入れるお茶が美味しくないという人もいる。
何故茶藝の達人なのに入れるお茶が美味しくないのか。
それはともすればお茶を入れることが「自分を表現すること」になってしまっているからかもしれない。
前編で書いたように、お茶入れには相手がいる。
相手に美味しく飲んでもらおう、お茶の良さをわかってもらおうとする前に
まず自分の美しい所作を見てもらおうというのは一種の邪念である、と思う。
美味しいお茶を入れるための一連の動作の中に自然な茶藝が生きているなら問題はないのだが、
お茶を入れることが自分をアピールする手段となっているとすれば、それはそのままお茶の味に出てしまうのだ。
そう、お茶には入れる人の思いが出てしまうもの。
どうしたらお茶が美味しく入るのか、私なりに得た結論。
お茶を入れる時はまず飲む相手を思いやる。
(好みはどうか?体調はどうか?暑いか?寒いか?お腹は満腹なのか、空腹なのか?)
そして茶葉と向き合い、対話する。
(この茶葉に合うお湯の温度は?茶葉の量は?茶器は?お湯のあて方は?抽出時間は?)
ここまでがクリアできれば大半は美味しく入る。
あとは無駄な動きを省いて(ここで茶藝が生きるかもしれない)、
心をこめて丁寧に入れる(これは気持ちだけかも?)。
あ、それから最後に大切なもの。
それは、「自信」。
迷いや不安があれば、それはやっぱりお茶の味に出てしまう。
ここでやっとタイトルの話になる。
中国茶を習い始めたばかりの頃、
どの師に付こうか迷っていた時期があった。
数カ所の中国茶教室を渡り歩いてまだ目的が定まらなかったある日、
師匠であるK先生(伏せ字にしても誰だかだいたいわかっちゃうと思うが)と初めてお会いする機会があった。
いつもは別の先生に習っていたのだが、その日はその先生がお休みで
ボスであるK先生が特別に教えてくださることになったのだ。
その初対面の時の先生の言葉が
「私の入れるお茶はおいしいですよ」だったのだ。
それは、それは衝撃的だった。
その揺るぎない自信はどこから来るのだろう?
そして、実際に先生の入れてくださるお茶は格別に美味しかった。
いつかは自分もこのセリフを言えるようになりたいと素直に思った。
茶会や教室などではそれなりの自信は身についてきた気がする。
準備の仕方のコツもわかっているし、
どんなお茶を入れるにも多少なりとも経験が功を奏して
昔に比べれば気持ちに余裕が持てるようになった。
入れるお茶自体がいまひとつの時もあるが、
味や香りをカバーするために話術をある程度駆使できるようにもなった。
でも、やっぱり未だに私はこのセリフを言える境地には達していない。
小手先の技術は身につけても、揺るぎない自信はまだどこにも存在しない。
そんなわけで、私の「お茶入れ道」はまだまだ続くのであった。
ご訪問ありがとうございます。
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あるお茶好きの作家さんが中国茶ムックのいつもどうやって中国茶を入れているか、という取材に答えて
「茶藝は人に披露するものではありません」と書いていたのを目にしたことがある。
当時の中国茶ブーム、茶藝ブームへ苦言を呈した発言なのかもしれない。
(私は「いや、茶藝は披露するものでしょ」、と突っ込みを入れたのだが)
私は客人の目の前でお茶を入れ、そのお茶をその場で一緒に楽しみ、
話に花を咲かせる茶会形式はなかなかいいシステムだと思っている。
しかし、そこに茶藝が必要であるかと問われれば、「不要」である。
茶藝とはあくまでイベントや茶館などで“表演”するもの、
即ち大勢の観客に見せて楽しんでもらうものだと理解している。
美しい所作は見ていて心地いい。
優雅で目を引く茶藝は中国茶の普及にも役立つだろう。
私は茶藝自体を否定するものではないが、
お茶を美味しく入れることと茶藝には相関関係があるとは思っていない。
もちろん茶藝の達人の中にお茶入れの達人はいるが、
茶藝の達人だからお茶入れの達人になれるという図式はないのだ。
ベテラン茶藝師さんの中にも全然入れるお茶が美味しくないという人もいる。
何故茶藝の達人なのに入れるお茶が美味しくないのか。
それはともすればお茶を入れることが「自分を表現すること」になってしまっているからかもしれない。
前編で書いたように、お茶入れには相手がいる。
相手に美味しく飲んでもらおう、お茶の良さをわかってもらおうとする前に
まず自分の美しい所作を見てもらおうというのは一種の邪念である、と思う。
美味しいお茶を入れるための一連の動作の中に自然な茶藝が生きているなら問題はないのだが、
お茶を入れることが自分をアピールする手段となっているとすれば、それはそのままお茶の味に出てしまうのだ。
そう、お茶には入れる人の思いが出てしまうもの。
どうしたらお茶が美味しく入るのか、私なりに得た結論。
お茶を入れる時はまず飲む相手を思いやる。
(好みはどうか?体調はどうか?暑いか?寒いか?お腹は満腹なのか、空腹なのか?)
そして茶葉と向き合い、対話する。
(この茶葉に合うお湯の温度は?茶葉の量は?茶器は?お湯のあて方は?抽出時間は?)
ここまでがクリアできれば大半は美味しく入る。
あとは無駄な動きを省いて(ここで茶藝が生きるかもしれない)、
心をこめて丁寧に入れる(これは気持ちだけかも?)。
あ、それから最後に大切なもの。
それは、「自信」。
迷いや不安があれば、それはやっぱりお茶の味に出てしまう。
ここでやっとタイトルの話になる。
中国茶を習い始めたばかりの頃、
どの師に付こうか迷っていた時期があった。
数カ所の中国茶教室を渡り歩いてまだ目的が定まらなかったある日、
師匠であるK先生(伏せ字にしても誰だかだいたいわかっちゃうと思うが)と初めてお会いする機会があった。
いつもは別の先生に習っていたのだが、その日はその先生がお休みで
ボスであるK先生が特別に教えてくださることになったのだ。
その初対面の時の先生の言葉が
「私の入れるお茶はおいしいですよ」だったのだ。
それは、それは衝撃的だった。
その揺るぎない自信はどこから来るのだろう?
そして、実際に先生の入れてくださるお茶は格別に美味しかった。
いつかは自分もこのセリフを言えるようになりたいと素直に思った。
茶会や教室などではそれなりの自信は身についてきた気がする。
準備の仕方のコツもわかっているし、
どんなお茶を入れるにも多少なりとも経験が功を奏して
昔に比べれば気持ちに余裕が持てるようになった。
入れるお茶自体がいまひとつの時もあるが、
味や香りをカバーするために話術をある程度駆使できるようにもなった。
でも、やっぱり未だに私はこのセリフを言える境地には達していない。
小手先の技術は身につけても、揺るぎない自信はまだどこにも存在しない。
そんなわけで、私の「お茶入れ道」はまだまだ続くのであった。
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納得・・・と思いながら読ませて頂きました。
そしてK先生らしさにも納得(笑)
お茶の道、まだまだ後から追いかけさせてください、宜しくお願いします(^^♪
K先生を知っている人が読むと、尚更納得ですよね。
お茶の道、後からなんて言わず、一緒に歩みましょう(^^)