下北半島とのんびりオートバイ

下北半島をのんびりツーリングした記録。また、青森県内やその他の地区の旅の記録です。へたくそライダーの日記です。

下北の3.11~東日本大震災~あるスーパーから

2016年03月12日 | つれづれ
 もう5年も立つんですね。東日本大震災から…。

5年前のちょうど3月11日は、お休みで、大震災が起きました。そのころのブログを読んでみると、バイクを降りた瞬間、グラグラ!と激しい揺れ。

 奥さんは、なんと、揺れにも負けず?テレビ鑑賞…。

 その時は、これほどの震災だとは、夢にも思わず…。

「いつもの地震か…、どうせすぐに終わるべ~」ぐらいの気持ちでした。確かに、災害はそれほどでもありませんでした。道路が寸断したわけでもなく、建物が崩壊したわけでもなく、がけ崩れや土砂災害が発生したわけでもありません。

 下北は救われていました…。と、思いきや、もちろん停電ですが、幸いにプロパンガスなので、ガスは使えました、水道も使えました、ということで、生活自体は確保されていました。

 ところが、…!そのあとが大変!「食料パニック」が始まりました(泣き)



 ある大型スーパーです。
商品があっという間になくなってしまいました。これは、開店前の店内の画像ではなく、営業中の風景?なんですね。

 食品が東日本大震災で、東北の物流拠点である仙台、盛岡が津波で壊滅して、商品がストップしてしまったのですね。また、当然、市場も機能しないため、下北へ食品が届けられなくなったんです。

 いくら、下北は海や山の幸が豊富だといえ、10万人のお腹を満たすほど、自給自足はできません。






そして、八戸市に本社のあるお菓子屋さんも、工場が津波に流され、廃業に追い込まれました。


また、マックも営業休止に・・・。


 食料パニックが始まり、これが2か月ほど続きました。

 ですが、一番は、知る人ぞ知る「下北は原始と原子の半島」!


 東通村、大間町、六ヶ所、むつ市関根と昔は、原子力船までありました。

 これらの原発施設がこの地震には、負けなかった!というのが幸いです。津波が下北まで届かなかったというのも要因の一つ?だったのですか…。

 福島並みの津波が来ていれば、まず東通りと大間は停止やメルトダウン?へ。六ヶ所は高台なので、大丈夫、そして関根も危なかった…かもしれません。

 津波は想定外だったのかもしれませんが、地震には、耐えていました。

でも、三沢や八戸の沿岸部は津波に襲われました。
三沢漁協です。7月の画像です。





これは三沢のある海岸です。



 青森県はそれでも、復興がすすんだようですが、いまだ震災の復旧が終わらず、仮設住宅で暮らす方もたくさんいらっしゃいます。新聞やテレビでは、特集や企画を報道や放映しています。

 5年も立つと、申し訳ないことに、記憶も失いかけて、もしかすれば、私たち下北にも起こりうる災害を、物語のように、語ってしまうこともあります。

 下北は、今、避難道路を整備して、原発の対応に苦慮しているのかもしれませんが、原発で潤っているのも事実なのです…。

 街頭では、「原発反対」とボリュームを最大にして、騒音のように自己主張をしているのを見かけます。
本当に、この人たちは、この下北の生活を、みんなの生活を考えたことがあるのでしょうか?もっと、真に問いかける場所と人たちがいるのではありませんか?

 頭の悪い私には、原発の功罪を語ることはできません。ただ、下北の海と山をのんびりとオートバイで眺め、生まれ育った下北の未来の幸せを夢見ています…。

 

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