Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

DCとリズム

2020-08-04 00:10:00 | コラム
『地獄の黙示録』(79)は、あり。

でも『アマデウス』(84)は、なし。


『ブレードランナー』(82)は、ぎりぎりOK。

繰り返すけど『地獄の黙示録』は、あり。

『コマンドー』(85)はなし。
『エクソシスト』(73)もなし。
『JFK』(91)も『ミッドサマー』(2019)も『レオン』(94)もなし。

極端なこといえば、観ないほうがよかったくらい。

そいでもって、もういちど。
『地獄の黙示録』だけは、ありだった―。


「ディレクターズ・カット」(以下DCと略す)は「あり」か「なし」かの話ね。

DCとは簡単にいえば・・・
劇場「初」公開時、プロデューサーの意向などによって「不本意な編集を余儀なくされた」監督が、オリジナルを再構築させた「新版」のこと。

「本来はこうしたかった」と訴える行為よね。


映画を評価する/好きになるというのは、
物語が気に入ったからとか、ひいきの俳優が出ているからとか、いろいろあると思うけれど、語り口のリズムが自分の感性・嗜好に「ぴったりときた」というのも大きいはずで。

観ているときは、べつにそんな風に思う必要はないのよ。
「編集のリズミカルさに感心する」なんていう観かたは、マニアだけの楽しみだろうし。

語り口のリズムが自分の感性・嗜好に「ぴったりときた」、だからこの映画のことが好きだったのだ・・・そのことに気づかされるのが、DC版に触れたとき。だったりするのです。

好きだから、その映画を何回も繰り返し観ている。
しまいには台詞はもちろん、次にどんなシーンが来るかも覚えちゃったりして。

好きなんだから当然、DCが発表されたら劇場に行く、あるいはソフトを買う。

そうして、ある違和感を覚える。

もちろんつまらなくはないのだけれども、心地良さがない。

なぜなんだ?
その正体こそ、リズムであったと。

再編集されたことにより、そのリズムが崩れてしまって、「大好きな映画」だったはずなのに「まあまあ好きな映画」程度になってしまうという。

これね、けっこう起こり得ることなのです。


それを強く感じた最初の映画が、『アマデウスDC』。
なぜモーツァルト夫人がサリエリに「あれほど冷徹」なのか、よく分かるようにはなっているが・・・

それこそサリエリが劇中でいっているように、
「音符ひとつで破綻が生じ、一小節で曲が壊れる」。

これがね皮肉なことに、DC版で証明されてしまっているのよ。

違和感がひどく、映画に集中出来ないほど、、、なのだもの。

シュワ氏の過去が明かされる『コマンドー』、主人公の検事が危険な目に遭う『JFK』、ふたりの関係性が「ほとんど恋愛」だったことが明かされる『レオン』。

ぜーーーんぶ、ダメ。

知りたくなかった情報や背景もあるし、それを強調したがためにリズムが完全に崩れてしまっている。


逆になぜ、『地獄の黙示録』と『ブレードランナー』はOKなのか。

前者は1時間ちかく追加され「極端にいえば、もうべつの映画」だから。
後者は改変がそれぞれ「とても微細で」リズムを損なうまでいってないから。

特例ってことですよ、この2本は。

リュック・ベッソンのように「オリジナルと同じくらいの熱量でDCを創る」感じのひとより、
ジェームズ・キャメロンのように「DCは、ファンへのおまけ」くらいのほうが理想的なのではないか・・・そんな風に思うのだが、いかがでしょうかね。




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明日のコラムは・・・

『ほぼほぼワイン党』
コメント (1)
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