marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(273回目)私は今日リンゴの木を植える(M・ルター)

2017-02-26 21:55:43 | 日記
◆歴史に生きるとは、単に歴史の一時期に、ある場所に具体的に「そこにある」という形で生きることではない。それは、歴史の中で、責任ある参与をもって生きることでなければならない。そのためには、歴史の中に生きる自己を含めて、人間と歴史を見る視点が明らかでなければならないはずである。
 ルターは責任ある参与をもって歴史に生きようとしたが、その際、彼は明瞭な視点を持っていた。人間がどのように生きようとも、しかもどのように罪の内に---神からの離反と背反、神への反逆の中に生きようとも、神が歴史を支配し、統治し、救済の意思をもって導いておられるという視点である。 ルターにおいて、その視点は「神のふたつの統治」という概念で表現された。もし人がここで、ルターにおける二元論という結論を簡単に引き出すならば、それは誤りであろう。アイグスティヌスがその「神国論」の中で明らかにした神の国とサタンの国との対立は、ごく初期の著作を除いては、ルターには見られない。ルターが強調したのは、同一唯一の神による、二通りの世界統治の様式である。神は、みことばをもって霊的に統治するとともに、法律と剣をもってこの世的に統治するという考え方である。キリスト者だけが信仰のゆえに、神のこれらふたつの統治様式について知ることができるからこそ、キリスト者この世の統治にも覚めた眼で積極的に関わっていくということになる。〔・・・・〕
◆「あしたが世界の終わりの日であっても、私はきょうりんごの木を植える」というルターの言葉が伝えられている。りんごの木を植えるということは見栄えのしない、小さな仕事であり、そのことの結果は何年、何十年先になってやっと現れてくるものなのだが、たとえ明日世界の終わりがくるのであっても、それは人間のことではなく、神のことであるから、信頼をもって神にすべてをまかせて、きょう一日の、自分に課せられた課題を精一杯果たそうというのである。ルターの職業観は職業を神の召しと理解したものである。たとえどのような働き、仕事であっても人はそれぞれへと召されているのであって、その召しに応答して精一杯いきることが大切であると、彼は教えた。それを単にこの世のこととして見、ルターにおける現状肯定と現状維持をそこから引き出すならば十分ではあるまい。
 ルター自身はもっと大胆に、信頼をもって歴史を支配する神の意志に注目していた。召し出した神は、単にそこへと召したことに止まらないで、いつも新たに、人を召し出すことを信じていた。そのような形で、神からの革新があることを待望していた。
◆歴史に生きることは、神の完全と、人の不完全、破れとに生きることでもある。農民戦争のときのことだけではない。生のすべての瞬間において、歴史に生きるそのような自己を、それなりに知っていたのは、ルター自身であった。そして、彼以上に、もっともよくそのような彼を知っている方がいることをも、彼は知っていたのである。
         (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p202)   ・・・