パウロの宿題と書いて、何を不謹慎なことを言い出すのかと思われるかもしれません。しかし、それは何もパウロの言葉には不足があるとかなどの文句では当然なく、パウロが我々に残している今の時代に励むべき宿題という意味です。そうすれば、パウロがコリント信徒への手紙(Ⅰ、13:12)の中で、「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる」と述べているように、私たちも日々の生活が共なる学びの時として過ごすことができると思います。いついかなる時も、パウロの言葉に従えば、彼(イエス)につながっていることを意識することは平安がもたらされると言うことになるのではないでしょうか。
◆ローマ人への手紙の最後に「わたしの福音」(25節、26節)とのべたように、イエスの福音の意味を当時の人々の状況の中でその時代に理解できる権威を持った言葉で語りかけたということになります。ですから、僕らは彼の手紙の中からまずは福音の意味とそしてそのための我らのあり方をきちんと学ばねばなりません。それは当然、頭での知識だけというものにはなりません。自分の言葉で読み、彼と語り、回答を得るということになります。パウロの宿題が多岐に渡っていたからこそ、多くの学問が発生してきたとも言えるのではないでしょうか。歴史や考古学はもちろんですが、最後に現れてきたのは、やはり神の似姿に創造された人間のこと。第一に体のことを知る医学、その言葉、言語学、心理学、教育学など・・・総じて人間学。しかし、ここまで来るとプロテスタント。
◆その前に僕らはキリスト教と言えばどうしても世界最大の長い歴史のある組織カトリックをイメージしてしまいます。大きな働きをなしていますが、同時にプロテスタントと相違するところもあります。2~3書きます。僕は意見を述べませんので読まれる方が考えて見てください。
①プロテスタントが「聖書のみ」を信仰の対象とするに対して、カトリックは「聖伝と聖書」を信仰の源泉となっています。聖伝への信仰をも不可欠のものとしています。第二バチカン公会議、神の啓示に関する教義憲章に次のように書かれています。「聖伝は使徒より由来し、聖書の完全な聖典を知らせたもので、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神の言葉を余すところなく、その後継者に伝え、後継者たちは真理の霊の導きの下に、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものである」(同公会議憲章7-9)
②「カトリック的信仰はカトリック教会が使徒伝道来として教える統べてのものを、聖書であれ、聖伝であれ自発的な同意を与え知性と意思をまったく服従させることにある。(同 教義憲章5)
③カトリックは聖母マリアを崇敬している。
◆ローマ教皇ヨハネ23世は、1962年に第二バチカン公会議を開催し大改革を起こしました。保守派と進歩派の意見の相違はありましたが大きな前進がありました。しかし、会議閉会を待たずに癌でなくなります(黒沢明監督の「生きる」という映画を思い出しだしました、その考えからして、教皇は高齢で病気で死が近いことを知っていたのでしょうと・・・)。その後の教皇パウロ6世が公会議の閉幕を担ったのですが、保守と進歩派の折衷者たるべく、聖母マリア崇拝は現在も世界で行われているということです。先に述べた①から③意外にも相違点はありますがプロテスタントは、それらは根本から認めていません。それは純粋に聖書に書かれていないからですね。
◆プロテスタントの中には、現在もローマカトリックを猛烈に排他する教えを述べている教派もあります。それは今までの歴史世の中からその多くは消え去るものではないということ、そして、烏合の衆でその「良心」という光のもとで世界一致が起こり、いいことのようのように見えるが一気に足をすくわれる時が来るであろうと聖書の預言書から読み解いているのです。世界遺産となっているインカ帝国の空中都市・・・先の回に述べたスペインの神の名の故の大虐殺が起こらなければ、あのような都市はできなかったことを推し量るべし。
◆最後に・・・それにしても今までの歴史で世界中にマリアの顕現があったことが知られていますね。世界で一番顕現の多かった年に僕は生まれているのです。・・・ Ω
◆ローマ人への手紙の最後に「わたしの福音」(25節、26節)とのべたように、イエスの福音の意味を当時の人々の状況の中でその時代に理解できる権威を持った言葉で語りかけたということになります。ですから、僕らは彼の手紙の中からまずは福音の意味とそしてそのための我らのあり方をきちんと学ばねばなりません。それは当然、頭での知識だけというものにはなりません。自分の言葉で読み、彼と語り、回答を得るということになります。パウロの宿題が多岐に渡っていたからこそ、多くの学問が発生してきたとも言えるのではないでしょうか。歴史や考古学はもちろんですが、最後に現れてきたのは、やはり神の似姿に創造された人間のこと。第一に体のことを知る医学、その言葉、言語学、心理学、教育学など・・・総じて人間学。しかし、ここまで来るとプロテスタント。
◆その前に僕らはキリスト教と言えばどうしても世界最大の長い歴史のある組織カトリックをイメージしてしまいます。大きな働きをなしていますが、同時にプロテスタントと相違するところもあります。2~3書きます。僕は意見を述べませんので読まれる方が考えて見てください。
①プロテスタントが「聖書のみ」を信仰の対象とするに対して、カトリックは「聖伝と聖書」を信仰の源泉となっています。聖伝への信仰をも不可欠のものとしています。第二バチカン公会議、神の啓示に関する教義憲章に次のように書かれています。「聖伝は使徒より由来し、聖書の完全な聖典を知らせたもので、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神の言葉を余すところなく、その後継者に伝え、後継者たちは真理の霊の導きの下に、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものである」(同公会議憲章7-9)
②「カトリック的信仰はカトリック教会が使徒伝道来として教える統べてのものを、聖書であれ、聖伝であれ自発的な同意を与え知性と意思をまったく服従させることにある。(同 教義憲章5)
③カトリックは聖母マリアを崇敬している。
◆ローマ教皇ヨハネ23世は、1962年に第二バチカン公会議を開催し大改革を起こしました。保守派と進歩派の意見の相違はありましたが大きな前進がありました。しかし、会議閉会を待たずに癌でなくなります(黒沢明監督の「生きる」という映画を思い出しだしました、その考えからして、教皇は高齢で病気で死が近いことを知っていたのでしょうと・・・)。その後の教皇パウロ6世が公会議の閉幕を担ったのですが、保守と進歩派の折衷者たるべく、聖母マリア崇拝は現在も世界で行われているということです。先に述べた①から③意外にも相違点はありますがプロテスタントは、それらは根本から認めていません。それは純粋に聖書に書かれていないからですね。
◆プロテスタントの中には、現在もローマカトリックを猛烈に排他する教えを述べている教派もあります。それは今までの歴史世の中からその多くは消え去るものではないということ、そして、烏合の衆でその「良心」という光のもとで世界一致が起こり、いいことのようのように見えるが一気に足をすくわれる時が来るであろうと聖書の預言書から読み解いているのです。世界遺産となっているインカ帝国の空中都市・・・先の回に述べたスペインの神の名の故の大虐殺が起こらなければ、あのような都市はできなかったことを推し量るべし。
◆最後に・・・それにしても今までの歴史で世界中にマリアの顕現があったことが知られていますね。世界で一番顕現の多かった年に僕は生まれているのです。・・・ Ω