marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(259回目)脱線 映画「沈黙」-サイレンス-を見る

2017-02-07 23:44:51 | 日記
今、上映中のマーティン・スコセッシ監督の映画、原作が遠藤周作さんの「沈黙」-サイレンス-を見ました。僕のこのブログの趣旨の観点からのみ短く意見を述べます。
前の回に、キリスト教の先理解のないこの国の教会には神学が必要であると深井智明氏が述べられていることを書きました。教会形成に神学はお持ちかどうかその道の方々の意見を是非ともお尋ねしたいと思ったものです。そして、この映画は、先理解のない日本人にイエスの言葉というより、まさにコンスタンティヌス体制以降のキリスト教の形式を信者に伝えそれが障害にもなったものと言えないだろうか。それに列強国の世界制覇と宣教事情があったそういう時代に起こったものだったと、そのようなことを思いました。
◆キリスト教の先理解のない方が見られたときにどのように思われるのだろうなとしばし考えました。よく勉強すればきっと感想も異なってくるだろうなと思います。「沈黙」については、関連する日本史にも、またこの日本に”すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉を一人一人のものに”とすれば、次のことは考えなければならないと思います。それは、このブログでも何度も述べてきたことですが、
1.時代的背景 その時代の為政者の国内事情、民衆、大衆の社会生活事情 2.世界の列強国の動き、意図です。映画の中で宗教奉行井上筑後守政重が後に転ぶことになるロドリゴに語りかける内容は、的を得ているように思いましたね。話には出てきませんでしたが殉教した26聖人なぜ彼らは見せしめになったのかの理由がわかれば時の権力者がなぜそうしたのかとか、ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダの貿易事情や各国の宣教師どうしの争いや、サン・フェリペ号の武器の搬入でのスペインの強大さの誇示とか、出島へオランダだけがなぜ認められたのかなどは、海を渡りあちこちの情勢を知っていたこのような貿易で富を得ていた国が、もし、日本があのような戦国時代とそれを経てきた時代でなければ今頃どのような国になっていたかはわからない、よい意味でも、また逆の意味でも。オランダは貿易を独占するために、キリシタン宣教師は、ポルトガル、スペインの侵略の手先だと幕府を先導したなどがわかっているわけですから、いまも列強どうしの犠牲になっている国は多くあるのです。そういう世界情勢をきちんと考えて見ないといけません。そのようなことを思いました。ザビエルがきたのは1546年、26聖人の殉教は1596年、カトリックのスペイン、ポルトガルが後退し、プロテスタントのオランダ、イギリスの宣教師が来るのは1600年に入ってからです。日本にきてもカトリックとプロテスタントは争っていたというわけですね。
◆したがって、遠藤周作氏が沈黙で、また映画の中でもフェレイラ宣教師がロドリゴ神父に言う次の言葉は、「違います」はっきり言わなくてはいけません。
「この国は沼地だ、やがておまえにもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっとおそろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。・・・彼らが信じていたのは基督教の神ではない。神の概念は持たなかったし、これからももてないだろう。日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない。切支丹が滅びたのはな、お前が考えるように禁制のせいでも、迫害のせいでもない。この国にはな、どうしても基督教を受け付けぬ何かがあったのだ。」
◇遠藤周作氏は、カトリックです。ここで”基督教”と書きましたが、ここに書かれているそれはイエスの言わんとした、また、その使徒たちが真にその神から啓示で受け取ったキリスト教ですか? そのあとのできあがってきた体制、何らかの組織体の維持をイメージするキリスト教ではないでしょうか。ここにプロテスタントが起こされた理由があるのです。・・・すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものに! 大切なのは自分の言葉で深く読み取ることです。・・・ Ω