marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(258回目)神学の起源-社会における機能Ⅲ 深井智明 著

2017-02-06 22:52:07 | 日記
ジェームス・マティス国務長官(66)、この方はマッド・ドッグ(狂犬)と呼ばれているそうですが、独身でかなりの読書家であるらしく、日本に来て無理難題をいうかと思いきや、日本は大変なお金を費やして(駐留米軍の一説75%の経費を出しているとか)いるという常識をご理解しているようで、そのままの堅持以上の無理難題は言わなかったようですね。理屈が理屈で通りそうな方だとお見受けしました。何をいいたいかと言えば、日本などでは言葉一つでなんだかんだと騒ぎ立てるに対して、プラグマティックなアメリカはさすが結果重視で、言葉よりはまず実績の事実重視であることを今回のありようで感じた次第でした。人はそれぞれ、ああもこうも言う、けれどその人の実績で見よ、というところは、まずは日本の僕らも学ぶべしと思わされた次第でした。前置きはこのくらいにして深井智明さんの最後の章・・・第8章 神学のアクチュアリティーから
◆(p204)多くの人は、キリスト教と一言で言っても自分の信じているあるいは所属している宗派や教会しか知らないので、それがキリスト教だと思い込むのである。それが一般的な宗教との接し方であり、間違いとは言えない。ところが信じるという行為は自らの人生をそれに重ね合わせ、すべてを委ねることであるから、他にもキリスト教があるという事実を受け入れることがなかなかできなくなる。・・・神学とは何かという問いへの答えもさまざまな方法があり、様々な答えがある。
◆(p207)私の考え方はこうである。神学は教会が生み出したものであるが、日本の教会はキリスト教が何もないところから、あるいはキリスト教的な伝統が何もないところから出発しているのであるから教会を形成するためにまず神学が必要となる。しかし問題はそれがどんな神学かということである。(p208)近代の聖書学の発展は、教会の神学が担ってきただけではなく、すでに示した「教会外の神学」の中で発展してきた歴史的・批判的な文献学多岐な研究から多くのことを教えられてきた。・・・教会の神学が、教会外の神学を、教会嫌いの神学を使いこなせないとしたら、それは教会の神学の実力不足である。・・・(p209)教会の神学は、自らの歴史的伝統を振り返り単なる過去の一時代の複写のような神学を現代によみがえらせたり、反対に時代の流行の思想に乗っ取られたような神学を書いたりするのではなく、時代を作り出し、そして町々、村々の教会の働きに寄り添えるような神学を形成して欲しいと思うのである
(*ところでパウロは、最後の挨拶で「私の福音」と述べていた。そして、自分が立てられたのは、イエスと天の父なる神によってであると宣言した。僕たちも、そうあるべきではないだろうか。・・・これは僕の意見)
◆(p219)そのとき、神学的教説が絶対的だと言いはるのではなく、著者が最後に記載したパウロの言葉のごとく、歴史も現実も終わっていないこの時に、罪深い不完全な人間が主張することは真理の一部であり、そのことを謙虚に受け止めるのが神学的知性であり、それは終末論的な知性と言ってよいかもしれない・・・と著者は結ぶ。
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◇パウロの言葉「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる」(コリントの信徒への手紙Ⅰ13章12節)
◇「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」(フィリピの信徒への手紙、3章12節)
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