パウロの余韻に浸るなどと書くと護教論的に聞こえるのでいけないのであるが、なぜなら、第一にまず、パウロが書いた手紙は他にもあるのでそちらも読まねばいけないし、雰囲気に浸って読むものではなく、まず第一に緻密に読まねばならないだろうから。そして、第二に先の回に書いたが、ローマ人への手紙の最後の挨拶にパウロは”わたしの福音”と宣言しているのであるから、その真意を他の当時の諸々の時代的制約をはぎ取って、現代の僕たちに、否、これからのどのような時代に生きようとも残るであろう普遍的な内容、そのエッセンスを残してこれからの人類が生き残るまで語り続けられるであろう言葉、主旨をくみ取って読み続けて行かなければならないだろうと思います。◆このブログは、”すべてのしがらみから解放されて・・・”を第一に考えてますが、護教論的方向に行くと、”聖書・聖句”のジャンルで、心の慰めを得られておられる方は、理屈めいた書く内容に眉間に皺を寄せるかもしれませんし、そうでなくとも、この異邦人の国の人はある西欧の歴史、あるいは、今、攪乱を起こしているキリスト教国アメリカの国のことを思い、一種の薄気味悪さというイメージを持つ人もいることだろうと思います。しかし、それは、パウロが自分の言葉として、わたしの福音と述べたごとくに、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である紙とによって使徒とされたパウロ、」(ガラテヤ信徒への手紙 1:1) と述べるまでには、当然とはいかない僕らであるが、今という時であるからこそ、自分の言葉で読み解かねばならないものであると強く思うのです。そして、このような考えは今の僕だけではなく、キリスト教の歴史の中で、パウロが”わたしの福音”と述べたごとく、様々な考えが起こり、時代に影響を与えた来たのでした。その2つをを紹介します。
◆(「神学の起源」 深井智明 著 新教出版社 以前にも取り上げさせて頂いた本です p152)
「ピューリタン革命のような、教会による教会制度の批判や既存の宗教システムの破壊という動きが起こると、これまでの教会という制度は腐敗堕落したものだと言われるようになり・・・既存の教会の教えであるドグマや信条、神学には疑問を感じるようになり、それらは後世の教会が作り出した都合のよいシステムであり、本当の教えを知る為には教会という制度を飛び越して、直接イエスの教えに帰らねばならないと主張するようになった。この時代に(17世紀イングランド)そのような神学が生まれた。この時代の神学の特徴は、教会の教えを飛び越えて、イエスの教えに直接立ち返ろうとして、聖書そのものに言及する聖書主義という立場の神学が誕生したことであろう。聖書は主として神の国の到来を間近に感じている原始キリスト教会の人々の言葉であるから、聖書主義の神学は現世との妥協やこの世の生き方などを含まない、逆に現世への批判を素直に語る神学となったのである。こうして、神学の性格は中世から大きく変化した。」
◆時代が下り、18世紀のフランス革命では・・・(p158)「ユーゴー(ヴィクトル・ユーゴー 仏の詩人、作家)の1860年6月12日の手紙に次ぎのような言葉がある。「全ての宗教を破壊する必要があるのだが、それは神を再建するためだ。私の言いたいことは、人間の中に神を再建するという意味なのだが。神とは、すなわち真理であり、正義であり、善意であり、権利であり、そして愛である」。したがってフランス革命というのはキリスト教や宗教の否定ということではなく、「教会的なキリスト教」の否定なのであり、そしてそこから、おかしな言葉に聞こえるかもしれないが、「教会外のキリスト教」あるいは「教会嫌いのキリスト教」というものが生まれることになり、両者は併存することになる。キリスト教というと敬虔に毎週日曜日に教会の礼拝に通うイメージがあるかもしれないが、世界的に見れば現在はキリスト教の多くはこの「教会外のキリスト教」になってしまった可能性がある。」
◆僕から言わせるとやはり、すべてのしがらみから解放されての戦いが歴史の中もあったということです。そして、今も・・・
◆(「神学の起源」 深井智明 著 新教出版社 以前にも取り上げさせて頂いた本です p152)
「ピューリタン革命のような、教会による教会制度の批判や既存の宗教システムの破壊という動きが起こると、これまでの教会という制度は腐敗堕落したものだと言われるようになり・・・既存の教会の教えであるドグマや信条、神学には疑問を感じるようになり、それらは後世の教会が作り出した都合のよいシステムであり、本当の教えを知る為には教会という制度を飛び越して、直接イエスの教えに帰らねばならないと主張するようになった。この時代に(17世紀イングランド)そのような神学が生まれた。この時代の神学の特徴は、教会の教えを飛び越えて、イエスの教えに直接立ち返ろうとして、聖書そのものに言及する聖書主義という立場の神学が誕生したことであろう。聖書は主として神の国の到来を間近に感じている原始キリスト教会の人々の言葉であるから、聖書主義の神学は現世との妥協やこの世の生き方などを含まない、逆に現世への批判を素直に語る神学となったのである。こうして、神学の性格は中世から大きく変化した。」
◆時代が下り、18世紀のフランス革命では・・・(p158)「ユーゴー(ヴィクトル・ユーゴー 仏の詩人、作家)の1860年6月12日の手紙に次ぎのような言葉がある。「全ての宗教を破壊する必要があるのだが、それは神を再建するためだ。私の言いたいことは、人間の中に神を再建するという意味なのだが。神とは、すなわち真理であり、正義であり、善意であり、権利であり、そして愛である」。したがってフランス革命というのはキリスト教や宗教の否定ということではなく、「教会的なキリスト教」の否定なのであり、そしてそこから、おかしな言葉に聞こえるかもしれないが、「教会外のキリスト教」あるいは「教会嫌いのキリスト教」というものが生まれることになり、両者は併存することになる。キリスト教というと敬虔に毎週日曜日に教会の礼拝に通うイメージがあるかもしれないが、世界的に見れば現在はキリスト教の多くはこの「教会外のキリスト教」になってしまった可能性がある。」
◆僕から言わせるとやはり、すべてのしがらみから解放されての戦いが歴史の中もあったということです。そして、今も・・・