信仰とは生きることである。神を信じることによって支えられて、人間として生き抜くことである。少し難しく言うなら、神について語ること、すなわち神学は、神だけについて語ることについて終始するのではなくて、必然的に人間について語ることを含んでいる。その意味でルターの信仰と神学の営みの中では、人間が大きな主題のひとつであった。
神について知ることは、この神の前での人間について冷めた眼で知ることである。その意味でルターは人間について、深い洞察をもつことができたのだと言うべきだろう。人間の現実、ありのままの姿を、おおい、包み隠してしまうことなく、冷静に深刻に見つめ、とらえたのだった。すべての人間は生来、神なき人間であるが、そのような神なき人間の姿をその罪の深みでとらえた深刻な理解は、他に例を見ないであろう。「すべきである」という神の命令は、なによりもまず「することができない」人間の実態をあらわにすると考えるのである。このようなルターの人間観を、ペシミスティックな人間観と受け取る者もあろう。
しかし、ルターには、福音そのもののもつ逆転がある。神について知ることは、神の恵みについて知ることだからである。聖書が「すべし」を語るとき、人は自らの無能力、いや、その逆をする罪の実態を示される。しかし、聖書は第二の言葉、より決定的な言葉、福音を告げるのである。「あんたの罪は許された」ということである。「私はあなたを、そのあるがままの姿で、キリストの故に受け入れた。あなたは今は私に属するものになったのだ」という神の宣言である。神の恵みについて知る者は限りなく深く、オプティミスティックである。ルターがキリスト者について語るとき、そのような明るさがある。『キリスト教的人間の自由』(キリスト者の自由)は小冊ではあるが、ルターの人間観、それゆえその背後にある神理解を鋭く明らかにしている。
だが、ルターは単純に、人間の現実を直視しないでオプティミスティックなのではない。『キリスト教的人間の自由』(キリスト者の自由)の中でも論理的に美しく整わない一部があるのはそのためである。キリスト者が理想的人間であって、一度そうなればもうその状態にあって、安泰であるとは、ルターは思わなかったからである。そういう安泰をルターは「人間的な確かさ(ゼクリタス)」と呼んだ。人間が自分の手で打ち立てて確保する「安全保障」である。そうではなくて、人間の実態は、キリスト者であっても、たえず新たにキリスト者になっていくことの必要を、ルターは真剣に考えていた。95箇条の第一条の主旨と同様である。この地上で生きる限り、キリスト者は自動的に理想的人間の軌道を走りうるということはない。キリスト者がたえず新たにキリスト者になろうとすれば、一方ではたえずキリストの恵みに帰ることが必要であり、他方ではそれに支えられて、自らを訓練し、節制することが必要だった。
ルターの人間理解を把握するためには、彼の言う「試練」を理解するべきであろう。それは、神によってひき起こされる、人間の実存的危機というように言ってよいだろうか。キリスト者であることは、そのような「試練」の中に身を置き、そのような「試練」を突破していくことである。「試練」はルターにとって、生涯をとおして、概念ではなくて、信仰の体験であった。試練と試練の突破の中で、キリストに大胆に賭けていく生を、彼自身生きた。それゆえにこそ、そうした内容をもった著作も、魂に慰めを与える書簡も書くことができた。キリスト教的人間について語るルターを、完全な理想的な聖人のひとりと想像するならルターははげしくそれを拒絶するであろう。苦悶し、破れ、試練にあえいだ者でありながら、それにもかかわらず、それを越えて、神の恵みの確かさに賭けた生身の人間が著作の背後に見てとれるのである。
(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p114)・・・ Ω
神について知ることは、この神の前での人間について冷めた眼で知ることである。その意味でルターは人間について、深い洞察をもつことができたのだと言うべきだろう。人間の現実、ありのままの姿を、おおい、包み隠してしまうことなく、冷静に深刻に見つめ、とらえたのだった。すべての人間は生来、神なき人間であるが、そのような神なき人間の姿をその罪の深みでとらえた深刻な理解は、他に例を見ないであろう。「すべきである」という神の命令は、なによりもまず「することができない」人間の実態をあらわにすると考えるのである。このようなルターの人間観を、ペシミスティックな人間観と受け取る者もあろう。
しかし、ルターには、福音そのもののもつ逆転がある。神について知ることは、神の恵みについて知ることだからである。聖書が「すべし」を語るとき、人は自らの無能力、いや、その逆をする罪の実態を示される。しかし、聖書は第二の言葉、より決定的な言葉、福音を告げるのである。「あんたの罪は許された」ということである。「私はあなたを、そのあるがままの姿で、キリストの故に受け入れた。あなたは今は私に属するものになったのだ」という神の宣言である。神の恵みについて知る者は限りなく深く、オプティミスティックである。ルターがキリスト者について語るとき、そのような明るさがある。『キリスト教的人間の自由』(キリスト者の自由)は小冊ではあるが、ルターの人間観、それゆえその背後にある神理解を鋭く明らかにしている。
だが、ルターは単純に、人間の現実を直視しないでオプティミスティックなのではない。『キリスト教的人間の自由』(キリスト者の自由)の中でも論理的に美しく整わない一部があるのはそのためである。キリスト者が理想的人間であって、一度そうなればもうその状態にあって、安泰であるとは、ルターは思わなかったからである。そういう安泰をルターは「人間的な確かさ(ゼクリタス)」と呼んだ。人間が自分の手で打ち立てて確保する「安全保障」である。そうではなくて、人間の実態は、キリスト者であっても、たえず新たにキリスト者になっていくことの必要を、ルターは真剣に考えていた。95箇条の第一条の主旨と同様である。この地上で生きる限り、キリスト者は自動的に理想的人間の軌道を走りうるということはない。キリスト者がたえず新たにキリスト者になろうとすれば、一方ではたえずキリストの恵みに帰ることが必要であり、他方ではそれに支えられて、自らを訓練し、節制することが必要だった。
ルターの人間理解を把握するためには、彼の言う「試練」を理解するべきであろう。それは、神によってひき起こされる、人間の実存的危機というように言ってよいだろうか。キリスト者であることは、そのような「試練」の中に身を置き、そのような「試練」を突破していくことである。「試練」はルターにとって、生涯をとおして、概念ではなくて、信仰の体験であった。試練と試練の突破の中で、キリストに大胆に賭けていく生を、彼自身生きた。それゆえにこそ、そうした内容をもった著作も、魂に慰めを与える書簡も書くことができた。キリスト教的人間について語るルターを、完全な理想的な聖人のひとりと想像するならルターははげしくそれを拒絶するであろう。苦悶し、破れ、試練にあえいだ者でありながら、それにもかかわらず、それを越えて、神の恵みの確かさに賭けた生身の人間が著作の背後に見てとれるのである。
(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p114)・・・ Ω