marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(261回目)脱線 映画「沈黙」-サイレンス-を見る Ⅲ

2017-02-09 20:23:10 | 日記
この国の歴史についての学習内容はあまり正しくないと言わなければいけない。特に日本史。その中でも日本の国の成り立ち。その他、覚えてはいけないというか教えられていない出来事がたくさんありそうに思われ日本史は一面の無難なところだけを学習させられているなぁと感じていたので、理系だったし受験校には世界史など選択枝になかったのですが面白くそちらの世界史などを勉強しておりました。日本が世界の動きが見えず”井の中の蛙”の時代、大海を越えて植民地政策に乗り込んでいた国があった訳ですから、その辺の状況をよく捕まえて当時もそして現在も全体を考えなくてはいけません。事件の裏には理由があるというところです。
◆2/7の259回目の最後からここに飛んできて。読まれてください。原作となっています遠藤周作氏の「沈黙」で一番の気になっていたところ、それは前の回にも書きましたが、日本の国はキリスト教の根付かない泥沼だというところ・・・結論を出す前にそれは時代背景をよく読み取らねばいけませんということでした。これは、どの宗教と言わず個人と組織について、またその時代の権力者、為政者により歴史として残される解釈は違うと言うことです。歴史に「もし」はないと言われるが、全土がキリスト教に改宗していたら、あの時代どこの国が乗り込んでどうなるか考えても明らかでしょう。2017年の現在でも起こっていることではありませんか。国の中での争いについてどちらにつくかに油を注ぎ、勝者から利をとろうといつも犠牲になる、いつも正直に生きている人々。
◆僕はイエスの再来に近づくにつれて最もこれからイエスの核心に近い生き様をさらして踏ん張って行くにはこの異邦人の国、いや、この日本という国は、実は根っこのところでは欧米よりも古い時代にその古層においてイエスの神を信じていた民族につながっていた(いる)と考えているのです。決して、学問の領域には上がって来ないでしょうが、あのクリスマスの祭りでさえ当時の民族風習に合体したものだったのですから、その辺をもっと定着するため声を高くして言ってもいいと思っているのですけれどね。
◆そこでこのブログを始めた趣旨にもなりますので、次に気になりましたところを「沈黙」の本の方から、作者は本の後書きで、転んだ「ロドリゴ(神父)の最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかしこれは私の今の立場である。それによって受ける神学的な批判ももちろん承知しているが、どうにも仕方がない。」と述べています。それは物語の一番最後に書かれた神父の独白にあると思われます。裏切りのキチジローに転んでしまった自分が最後の告悔(コンヒサン)を聴いてやったあと・・・
◇「聖職者(ここでは自分の組織体イエズス会)たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人(イエス)を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙したのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」(p248)
◇そのロドリゴに「転ぶと信者を助けることになる」という先に転んだフェレイラ司祭(この人はかつてのロドリゴの師に当たる)がこう囁くところがある。「教会の聖職者たちはお前を裁くだろう。わたしを裁いたようにお前は彼らから追われるだろう。だが教会よりも、布教よりも、もっと大きなものがある。お前が今やろうとするのは・・・」(p223) 僕が思うにこれらがまさにプロテスタントなのです
◆昨年2016年東京都文京区小日向にあった江戸時代、切支丹を拘禁した切支丹屋敷から禁教下、18世紀初めに潜入した宣教師、ジョバンニ・バッテスタ・シドッチ(彼が本当に最後の人)の人骨が発見されました。ローマ教皇特使でした。そして、2017年の今年はマルチン・ルターが万人祭司説を唱えた宗教改革500年に当たります。考えさせられます。・・・生者(しょうじゃ)のあらん限り死者は生きん! ・・・Ω